件のトピ主はトピ廃止を決意したようだが代替場に迷っているようだ。実は私もどこへ行くか迷っているが。それはともかく一部にはあの争いを見ていい年した大人が、ましてや「芸術」について…と言う意見もあるかもしれない。
 ところで手前ミソながら私の出身学部・学科は美術関係の学術・教育機関、評論、情報、美術館学芸員などに多く人材を輩出しているところだ。数は少ないが市場や修復関係もいるらしい。最近流行りの「キュレーター」など「プロデュース業」から一部考古学などに至るまでカバー分野は多岐に渡る。その意味では私は実作との間での半端な「出来そこない」だったが、私のような実作の世界へ踏み込んだ者も少なからずいる。
 ともかくそういう世界ではこういう争い、論争はしょっちゅうだ。
 あからさまに「〇〇論文批判」とか「○○氏への公開質問状」などに挑発的・挑戦的な題目を掲げる場合もある。
 ただ争うというだけでなくそれがオーバーに言うと人生を左右する場合もある。世渡りが上手く特定人脈に上手く乗れば出世するし、そうでない場合は冷や飯を食わされたり地方に飛ばされたりする。「白い巨塔」は本当の話だ。曲学阿世の徒もいるし、これで名を売ってやろうと言う野心もある場合もある。
 これも実作の世界と同様決して綺麗な世界ではない。しかし自我の思想そのものについては概ね純粋でそれを表明する時は必死で、件の意味で存亡をかけるといっても過言でない。
 それでも不思議と、著作権に関するものを除き、名誉毀損等に係る裁判沙汰は少ない。

 その理由は、一つの真理や価値体系を導くためには多かれ少なかれこのような議論や争いは付きもの、あるいは不可避のものであるということを経験上知っているからだ。もう一つはお互いにケンカできる思想やテーマや知識を有しているし、最終的にはそれでなければ雌雄を決せられないと言うことを知っているから、ドロドロした人格や名誉に関わる争いにまで至らないからである。
 ただこういう論争の場合、いくら「知識」があっても自分固有の「思想」のないものは勝てないというのが私の見解だ。思想に結び着かない知識とはいくら積み重ねてもただの「教養」に過ぎない。知識は外部から与えられる「借り物」だが思想はその知識を元に内部で主体的に創造されるもの。その主体性ある美術史家になるにはいつかは自分固有の思想を表明しなければならない。やる以上は誰も「サラリーマン美術史業」で終わりたくないだろう。だから自分固有のテーマを追究する。自分固有であるためには必ず誰かと衝突するというわけだ。

 掲示板などのINコミニュティーはそういう意味では成熟した世界ではない。前に別箇所で書いたが、人がある事象や価値体系について誠実に主体性ある思想を語ったなら、そしてそれに反対意見を持つなら、それと同じテーマについて自分自身の思想や言語をもって反論すべきがフェアというものだろう。仮に、何かのテーマについて自分から積極的に発言したり問題提起したりできない、私の言う、及び腰の「ロム専見聞主義」でも、発言する以上はそれくらいの道義は心得るべきだ。ところがこれもしない。それが出来なければ黙ってろ!と言いたくなる。

 ところが黙ってない。どうするか?搦め手からの人格攻撃にでたりレッテル貼りにでるのである。大して時間も労力も知力も要さない短か目の文章で巾着切りのように忘れた頃出てくるのである。レッテル貼りとは、かつての日本のように、頭はないが権力のあるものが自分たちの体制やそれなりの市民的秩序に不都合な主体性ある思想を「非国民」とか「アカ」と呼んで、問答無用、力づくでそれを抑えるというのと同種のものである。
 芸術等に関しちょっと難しいことを言えば「エリート意識・お高くとまっている」、体制批判すれば「不平分子・僻み根性・左翼」、挙句にお前は何で食ってんだと来る。本当にこういう恥知らずの愚劣さのは勘弁して欲しい。何も話が始まらない。人格云々言うなら自分の人格はどうなんだ!?謝罪せよと言われる様な失礼を先ず謝ったらどうかね!?
 自分の価値観、器、資質、能力の方に総て物事を合わせて語れるほど、世の中甘くないし、世の中そのレベルの人間だけで出来ているわけでない。
 このような状況である以上基本的にINコミニュティーに正々堂々氏名や自己にまつわるイワク因縁故事来歴から披瀝して語る義務はなかろう。不利益を被るというリスクしかないからだ。逆に言えばINコミニュティーの管理者はそういう意味での限界を知っているからこそ匿名・HNの使用を保証したのであろう。

 話は変わるがゴキブリという虫は非常に歴史が古く、何億年もの間あのままであると言う話を聞いたことがある。それは「自分はこのままでいいんだ」と思っていたから進化しなかったからであろう。即ち自分がこのままでよい、現状に満足と言う広義の≪保守≫は進化しない。一方理想を求め、価値を希求し、自己開発をし、一層の高みを目指すものは問題意識や批判精神を持つのは必然である。物事を自分に合わせようと言う不遜さはない。だから人生にテーマを持つ。
 某ベテラン画家は某氏とこのINコミニュティーで知り合い、本当に某氏の住む外国を訪問してしまった。単なるヴァーチャルな世界でなくなったのである。これもそういう意味の人格同士の出会いがあったからであろう。
 そういう人格に一つでも出会えればよいと思う。私も件のトピ主もINコミニュティーにそういうものを求めているのかもしれない。ともかくこの争い、そう解釈したいししそうなら結構と思う。