掲示板「どうしたらうまくかけるの」を閉鎖するというトピ主からの宣言があった。きっかけは「佐伯祐三真贋事件」関連について関係当事者間のかなりシビアな衝突にあるようだ。
しかし衝突自体は互いに当問題についての相当の研究あったればこそのものであり、過熱するのもその退っ引きならない互いのこだわり故のものとすれば、第三者が安易にその現象面だけを是非するのは控えるべきであろう。
少なくても、そこらで見かける、趣味的、傍観者的、人畜無害、どっちつかずの何言ってるんだか分け判らない駄文に比べればはるかにマシ。
さてそうは言っても、私は件のトピ主のwhiteorionさんと伴に争いの当事者HOKUSAIさん、話題の中心人物落合莞爾氏に直接会った人間であり、当ブログにおいても「佐伯祐三」特集なる書庫を設けていろいろ考察・発言してきたし、佐伯祐三と同じキャンバスを作り、佐伯のアトリエを訪れ、試みに佐伯的早描き技法で絵を描いてみたりして自ら絵画を制作する者の立場でこの問題に関わった経緯もあり、事ここに至りわれ関せずを決め込むのも如何と思い、その意味で必要に迫られてこの「廃止後」の当一文に至った次第。
既にこの問題についてはこの書庫で縷縷述べてきたので仔細は省き結論めいたことだけを纏めたい。私は落合論文がかなり膨大な資料と相当な調査で出来た「労作」と認め敬意を払いつつも、一部については素直に疑問を呈し、反対意見も述べてきた。
例えば佐伯の線描等がメニエール病による視力障害と関係していると言う点については私自身がメニエールキャリアでありその経験から、それは内耳の疾患であり難聴をきたすことはあるが視力障害は考えられないということ、佐伯「草説」は画家というその資質、そのメティエ、その他諸々と関連して有り得ないということ、「リンチ」、「砒素毒殺」に至っては余程の確証がない限り落合論文の信頼感の足を引っ張る惧れすらあること等その他を率直に述べた。
一方以前落合氏に会った際氏は自分の主たる興味は「吉薗周蔵」その人物にあり、「佐伯」は二の次である旨の発言があったが、勿論人それぞれに関心やテーマあってよいはずで、同様に私は絵描きとしても一美術史学徒としても佐伯の方に主たる関心があるのでその立場で論じたい。もとより吉薗関連については件の関係者ほどの知識も研究実績もないので認識不足や無知・誤謬の類の可能性を否定するものではないと言うことをお断りしておく。
さてそうい立場で言うなら私はポイントを以下の二点に絞る。
1.吉薗明子が武生市に提供を申し出たした三十数点の「佐伯」の真贋
2.「佐伯」作とされたものへの佐伯米子等による加筆、代筆の有無
これらについて私個人は結論とは言わないまでも何某かのけじめがつけられればとりあえずよいと思っている。
次にそうしたことを考察する上で必要と思われる佐伯関連の出来事を時系列でまとめた。
1924 第一次渡航
1926(昭和元年) 帰国
「1930年協会」結成
二科展出品、二科賞受賞
アナターズ型チタニウムホワイトヨーロッパ市場に出回る
1927 第二次渡航
1928 自殺未遂、死亡
1929 1930年協会追悼展、二科展、佐伯祐三遺作展(大阪)
1931 満州事変勃発
1933 国際連盟脱退
1937 日中戦争勃発
佐伯祐三遺作展(東京府美術館)
1940 ナチスドイツパリ入城
1941 真珠湾攻撃、本格的太平洋戦争へ
1945 終戦
戦後 ルチル型チタニウムホワイト市販開始
さて私は落合論文中にある以下の手紙に注目した。佐伯祐三が薩摩千代子宛に当てたとするものである。
(日時不明)
≪新しい絵の具 買いに行ってきました。
白が新しいもん ありました。ためして見ます。
チタンという顔料だそうです。あとで。≫
その中の「新しい絵具、白が新しいもん、チタンという顔料」と言う記述は、上記年表中の1926年にアナターズ型チタン白がヨーロッパ市場に出回ったという史実と符合する。新しいとはそれまでの白色顔料の鉛白(シルバーホワイト)と亜鉛華(ジンクホワイト)に新しく加わったと言う意味である。
つまり佐伯は1928年に死亡しているので二回目の渡航の際に出始めのアナターズ型チタン白を使った可能性があり、このことはこの手紙に俄然リアリティーを与えるものとなる。
勿論後代史実にそって捏造することもできるが、その真贋はこの手紙に使われた文具を物理的に分析したり切手や消印等を調べればよいだろう。
もしこれがホンモノとすれば極く短いフレーズであるが、これは佐伯が関係者に出したとされる数多の手紙類のリアリティーに通ずる。なぜならこれだけがホンモノであとは全部ニセモノとは考えるのは不自然だからである。
ところで例えばゴッホのような特定画家についての伝記に登場する人物は他の伝記にも重複して現れる。私は落合論文以外の佐伯関連の伝記を読むたび「吉薗周蔵」の名前を探すのだが未だ出てこない。画家佐伯の存在にあれほどの大きな関係がある人物とすれば出てこないのが不思議だ。情報があれば教えていただきたい。
ともかく落合論文のリアリティーについてこの辺が鬩ぎ合っているというのが率直な感想だ。
(つづく)
しかし衝突自体は互いに当問題についての相当の研究あったればこそのものであり、過熱するのもその退っ引きならない互いのこだわり故のものとすれば、第三者が安易にその現象面だけを是非するのは控えるべきであろう。
少なくても、そこらで見かける、趣味的、傍観者的、人畜無害、どっちつかずの何言ってるんだか分け判らない駄文に比べればはるかにマシ。
さてそうは言っても、私は件のトピ主のwhiteorionさんと伴に争いの当事者HOKUSAIさん、話題の中心人物落合莞爾氏に直接会った人間であり、当ブログにおいても「佐伯祐三」特集なる書庫を設けていろいろ考察・発言してきたし、佐伯祐三と同じキャンバスを作り、佐伯のアトリエを訪れ、試みに佐伯的早描き技法で絵を描いてみたりして自ら絵画を制作する者の立場でこの問題に関わった経緯もあり、事ここに至りわれ関せずを決め込むのも如何と思い、その意味で必要に迫られてこの「廃止後」の当一文に至った次第。
既にこの問題についてはこの書庫で縷縷述べてきたので仔細は省き結論めいたことだけを纏めたい。私は落合論文がかなり膨大な資料と相当な調査で出来た「労作」と認め敬意を払いつつも、一部については素直に疑問を呈し、反対意見も述べてきた。
例えば佐伯の線描等がメニエール病による視力障害と関係していると言う点については私自身がメニエールキャリアでありその経験から、それは内耳の疾患であり難聴をきたすことはあるが視力障害は考えられないということ、佐伯「草説」は画家というその資質、そのメティエ、その他諸々と関連して有り得ないということ、「リンチ」、「砒素毒殺」に至っては余程の確証がない限り落合論文の信頼感の足を引っ張る惧れすらあること等その他を率直に述べた。
一方以前落合氏に会った際氏は自分の主たる興味は「吉薗周蔵」その人物にあり、「佐伯」は二の次である旨の発言があったが、勿論人それぞれに関心やテーマあってよいはずで、同様に私は絵描きとしても一美術史学徒としても佐伯の方に主たる関心があるのでその立場で論じたい。もとより吉薗関連については件の関係者ほどの知識も研究実績もないので認識不足や無知・誤謬の類の可能性を否定するものではないと言うことをお断りしておく。
さてそうい立場で言うなら私はポイントを以下の二点に絞る。
1.吉薗明子が武生市に提供を申し出たした三十数点の「佐伯」の真贋
2.「佐伯」作とされたものへの佐伯米子等による加筆、代筆の有無
これらについて私個人は結論とは言わないまでも何某かのけじめがつけられればとりあえずよいと思っている。
次にそうしたことを考察する上で必要と思われる佐伯関連の出来事を時系列でまとめた。
1924 第一次渡航
1926(昭和元年) 帰国
「1930年協会」結成
二科展出品、二科賞受賞
アナターズ型チタニウムホワイトヨーロッパ市場に出回る
1927 第二次渡航
1928 自殺未遂、死亡
1929 1930年協会追悼展、二科展、佐伯祐三遺作展(大阪)
1931 満州事変勃発
1933 国際連盟脱退
1937 日中戦争勃発
佐伯祐三遺作展(東京府美術館)
1940 ナチスドイツパリ入城
1941 真珠湾攻撃、本格的太平洋戦争へ
1945 終戦
戦後 ルチル型チタニウムホワイト市販開始
さて私は落合論文中にある以下の手紙に注目した。佐伯祐三が薩摩千代子宛に当てたとするものである。
(日時不明)
≪新しい絵の具 買いに行ってきました。
白が新しいもん ありました。ためして見ます。
チタンという顔料だそうです。あとで。≫
その中の「新しい絵具、白が新しいもん、チタンという顔料」と言う記述は、上記年表中の1926年にアナターズ型チタン白がヨーロッパ市場に出回ったという史実と符合する。新しいとはそれまでの白色顔料の鉛白(シルバーホワイト)と亜鉛華(ジンクホワイト)に新しく加わったと言う意味である。
つまり佐伯は1928年に死亡しているので二回目の渡航の際に出始めのアナターズ型チタン白を使った可能性があり、このことはこの手紙に俄然リアリティーを与えるものとなる。
勿論後代史実にそって捏造することもできるが、その真贋はこの手紙に使われた文具を物理的に分析したり切手や消印等を調べればよいだろう。
もしこれがホンモノとすれば極く短いフレーズであるが、これは佐伯が関係者に出したとされる数多の手紙類のリアリティーに通ずる。なぜならこれだけがホンモノであとは全部ニセモノとは考えるのは不自然だからである。
ところで例えばゴッホのような特定画家についての伝記に登場する人物は他の伝記にも重複して現れる。私は落合論文以外の佐伯関連の伝記を読むたび「吉薗周蔵」の名前を探すのだが未だ出てこない。画家佐伯の存在にあれほどの大きな関係がある人物とすれば出てこないのが不思議だ。情報があれば教えていただきたい。
ともかく落合論文のリアリティーについてこの辺が鬩ぎ合っているというのが率直な感想だ。
(つづく)