とにかく件のコミニュティーに集う者らの「思想」の無さには失望させられる。どっちつかずで何を言っているのか判らない。正確には言っていることは判らないわけではないが何が「言いたい」のか判らないのだ。つまり己のポジションが判らないのである。「オマエはどこにいるんだ!」と言いたくなる。つまり前記の思想がないのだ。どっちの「味方」だかわからないような発言をする者、妙な分別臭い者は最後は正体を晒すことになるが。
 
一例をあげる。これも既出拙文からである。
≪ さて以前あるベテラン画家が「日本の神話」を描くと言う若い描き手にその「思想」から懸念を表明したことがある。その画家の意見に賛意を示したのは私一人。私は以下のごとくその理由を展開した。
 すなわち日本の神話はギリシアやローマ神話のような純粋な神話ではない。かつて国家権力が「国体護持」、「軍国主義」の精神的支柱たる「国家神道」、「皇国史観」の根拠として、あるいは世論誘導のプロパガンダとして利用したのである。しかもそれは観念だけの問題ではない。「大東亜共栄圏」や「五族協和」(日、中、朝、満、蒙)のベースには「八紘一宇」の思想がある。それは「世界はその四辺四角に至るまで天皇を中心とした一つの家」ということ、これ(八紘一宇)は日本書紀に書かれている文言であり、「忠君愛国」と供に大東亜・太平洋戦争のスローガンとして具現化されたのである。
 あるいは、元寇の時大風がふいて蒙古の大軍が沈没したように、日本は「八百万(やおよろず)の神々に護られているので滅びることはない、その大風から「神風(カミカゼ)特攻隊」の名前が来ているということ等を例としてあげた。
 そのような経緯がどのような結果となったかは周知の通り。正に亡国寸前までに至ったのである。否ひとたびは滅亡したというべきだろう。何よりもそれは戦後のこの国自体が否定したものであり、そうした「前科」のあるものに対してはそれなりの警戒を要するのは当然であろう。
 ましてや精神の自由による純粋な創造が求められる世界で、若い描き手が、その既成の「話題性」や、かつての国策の手垢にまみれたテーマにに安易飛びつくというのは、「創造の自由」への干渉だとか世代間ギャップだとか批判されるリスクを冒しつつも、件の画家にとっては看過できないことだったのであろう。もう一度言えばその画家の行為は思想ある画家として当然の行為であった。
 一方この描き手を支持する側即ち件のベテラン画家と私に反対する立場の趣旨は以下様であった。「戦争も国策に神話が利用されるのも反対、しかしことは個人の問題、神話を描く自由も含めてとにかく自由は認めるべきである。ことは創造の自由への干渉である。≫

 それを言うなら、自分自身の問題として、自分の存在やメティエと関連して件の「神話」や国家、あるいは国家と文化の関係をどう考えるかも言うべきであろう。神話を根拠にした一元的価値体系が、その創造の自由を含めて、本邦国人のみならず、人間の存在、尊厳そのものを蹂躙した「道具」に現にかつて使われたものであるということ。それを自分がどう考えるかということだ。これが思想である。 
 これはいつも言うことだが、その「神国日本」は≪鬼畜米英、一億火の玉!≫をスローガンに内外数百万の戦争犠牲者を巻き込む大戦争をした。ところが負けたとたんに一朝にして「アメリカは永遠のパートナー!」ときた。まさに壮大な「国家的・民族的御都合主義」だ。まともな人間ならあの戦争はなんだったのか?あの戦争犠牲者の死を無駄にしないにはどうしたらよいかを考えるはずだ。
 その意味では私は勿論反対だが強大な核武装までしてアメリカに「リベンジマッチ」を挑むという方がまだ筋が通っている。
 その「パートナー」はヒロシマ・ナガサキ、東京大空襲で無差別大量殺戮をし今なおその身勝手な力の論理で世界中で軍隊を動かしている国ではないか!
 ところがそうしたことをケロッと忘れ、その後朝鮮戦争特需で儲けさせてもらい、「安保で守られた」ことにつきアメリカを「恩人」とし、今は忠実な腰ぎんちゃくとして何でも言うことを聞く。

 エスタブリッシュは権力があるしマスメディアは大衆をどうにでも動かすエネルギーがある。そしてそれは左様にいい加減でご都合主義で揺れ動くものである。そんな中妙な分別や「敵」への多少の理解など何の力も持たない。そういう「消極的保守」は中身はどうあれそれは現象的には右翼・保守陣営の「積極的保守」と変わらないものとなるのである。
 事実そういう一億総保守化で「いつか来た道」がで現実のものとなっている。ディズニーランドで遊び呆けてばかりいないでたまにはそういうことを考たらどうかと思うのだがね。
 
 ともかく、この例を分析すれば以下様になる。即ち、一つの事象や価値体系を否定、批判するには相当のエネルギーと自我についてそれだけの根拠と何某かの能力がいる。それより現にあるものをあるものとして認めてしまった方がはるかに「楽」なのである。これは先の絵画における「デッサン」を否定するため「創造の自由」とか「感性」をに安易持ち出すのと似ている。

以下は版画家山本容子の新聞紙上の言の抜粋である。
【人の目に留まるほど力が抜きん出る仕事人は、必ず土台が確かなものだと思います。自分が成そうとする仕事の世界や既成概念を知り尽くさなければ、つまり何が新しいかのか、どこが美しいのか分らない。だから懸命に学ばなければ、次のステップへ旅立つことができない。…中略…「アーティストは『意味』の所在を絶対に知らなくてはならない」(以下括弧付け筆者)のです。…中略…マスコミやコマーシャリズムにも責任の一端はあるでしょう。「みんな、必要なものを知るコモンセンス、常識の学び方が足りない、何が大切かを見抜けなくなってます。」以下略…】
 趣旨はは昨今の若年世代について情報操作や世論誘導に乗せられ易い反面自分で思考し創造すると言うことの欠如を指摘したものである。(つづく)