ところで画家は絵を描くだけでよいのだろうか?確かに「純粋芸術」という言葉はある。特に子供や知的障害者などの描く立派に絵画芸術として通用する造形性は否定し得ない。しかしこのことは逆に芸術がそういう意味で純粋であるべしということではないし、通常生身の人間たる絵描きが作品に自我の何某かを投影させたいということの方が自然だ。
 というより私は『思想』という概念でもっと積極的に捉えている。先に述べたように「強い絵」とはしっかりした造形性もさることながら、その思想の存否がかなり関わってくると思う。

 ≪衆愚≫という言葉がある。以前「ワレはナンボのもんじゃい?」という趣旨の問いかけがあったのでそれを以下様に定義した。≪既成のものにどう対応していくかの方法論しか考えない、怒りがない、思想がない、自我がない、だから世論誘導・情報操作されやすい、集団的帰属に安心感を持つ、結果いいように管理され、時代に流され、時代の悪化に事実上加担する。その罪にも気づかない。思想あるものに時に逆切れする。社会科学用語として私はそう解釈してます。≫

 58年も前に映画監督で、故伊丹十三の父伊丹万作は「戦争責任者の問題」という一文の中で以下の様なことを言っている。
【(以下他人発言の引用部分にはこの【】を使用)…そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。…】

 正にその衆愚を言い当てている。これを紹介したサイト作者も今日にも通用する警鐘と言っている。正に驚くべき洞察力だ。しかしこれは芸術家とか表現者とか言われる人種にとっては当たり前と言えば当たり前のこと。彼らは先ず自己の創造、表現行為の意義と理想を考える。当然その行為の主体である自我とそれが存在している全事象との関係性を考える。とするなら全事象の意味を考えなければならない。言い換えれば後者を無視して創造は成り立たないと言える。
 即ち創造者は衆愚であってはならないしあるはずがない。既出の拙文を引用する。

 ≪一方創造が宿るべき思想とは勿論政治、社会科学、宗教、哲学など体系化された「イデオロギー」に限られない。
 この場合のそれは、創造の主体たる自我がその背負ってきた人生と絡めてどうで、その自我が位置づけられている時間・空間(現在・過去・未来、社会・国・世界・宇宙)への認識がどうで、その時空との関わり方がどうだから自分の創造行為はどうあるべきか、そしてその「メティエ」自体に係るポリシー、プライド…総て陳腐な表現ではあるが「アイデンティティ」と言われるものだ。
 当たり前の話だがそういうものが複数あるはずがない。トータルなものが一つに集約されるはずだ。つまり違背する価値観が自己の内部で共存するなど精神分裂病でもない限りあり得ないのである。
 既に別途のべた言葉を援用すれば「俺の言っていることは正しいがあんたも正しいかもしれない」などというのは無責任な自信のない「思想」である。何某かの「社会的協調性」という規制をうけない純粋な思想に言論の自由も民主主義もない。≫

 もう一つ拙文引用。
 ≪我々の周りは政治・経済からマスコミ文化、市民社会にいたるまで、凡そ世界は「ウソ」に満ちている。だからそこに埋没していると真実に出会えない。価値のない人生でしかなくなるのだ。此処に芸術・文化の意義がある。我々は優れた芸術作品に接し、それを通じて芸術家の「思想」を知ることができるこの場合の思想とは…中略…継続的にあるいはその都度、自我の生きる意味と真実にため誤魔化さずに人生と向き合う姿勢であり、自我が存在している世界や事象の「解釈の仕方」である。芸術とはそうした「問題意識」を創造と言う形で具現化したものに他ならないと言える。美意識、価値観、死生観など全部思想である。…中略…芸術を愛する者は、こういう真実を求める姿勢ゆえに、覚醒した精神、曇りなき眼力を持っている。それは世界に満ちた理不尽や不合理やインチキを看破するだろう。時代に諂い、芸術を物質の下位に据え、平和すらも金(軍事力を含む)で買えると思っている近視眼的エセ文化も完全に識別できるだろう。≫ 

 つまり創造者が現下の事象について自己の存在とメティエと絡め発言するのは当然であるし、ある意味では義務でもある。ところが「蟹族」はここにもいる。創造者とは言わない。ある事象や価値体系について一個の人格が相当時間をかけ誠実にその思想を表明した場合、自分がその思想に反対ならその事象や価値体系について自分の思想をもって反論するのが当然でありフェアというものだ。ところが受け入れ難いという事実あるのみで反論できる思想もない、自分の言葉も持たない。こういう人間が「逆切れ」するのである。(つづく)