さて佐伯に戻りますが、問題は佐伯自身も強迫観念としては持っていたであろう「死」というテーマとその作品との関係ということでしょう。確かにあの黒っぽい色彩やデーモニッシュでフォーヴなタッチにそういうものを見出すと言うのは可能かもしれませんが、例えば同じ精神障害と「自殺」に関してゴッホの「烏舞う麦畑」に見られる、小林秀雄がしゃがみこんだというような、不吉な死を予感させるようなものを佐伯の画面から読み取ったというのは、あまり佐伯関連の評伝を読んでも出てきません。
その意味では「死」のイメージを作品に表出させるということが希薄であったという先の徳田医師の指摘は正しいように思います。
これは一つは佐伯が、ブラマンクとのエピソードやゴッホ、ユトリロなどへの傾倒、「パリのマティエール」にこだわり2回も彼の地を訪れたということなど、かなり自我の造形世界の追求に前向きで積極的な姿勢から、「死」などと言う「後ろ向き」のテーマを想起させられないと言うことがあると思います。
それともう一つは佐伯の画家としての現実的なポジションにもあると思います。
これまで直接間接を問わず佐伯関連で名前の上がった画家をランダムに列挙すると、レオナルド・フジタ、荻須高徳、里見勝蔵、萬鉄五郎、岡鹿之助、山口長男、小島善太郎、小出楢重、伊原宇三郎、伊藤廉、木下孝則、野口弥太郎、石井柏亭、林武…いずれもその後日本画壇の中心人物となる、うんざりするくらいの錚々たる面々です。日本画壇が今日のような裾野の広がりを持たない未だ過渡期でその世界が狭かったとはいえ、よくこれだけのメンバーが佐伯の周りに居たものとだと先の「夭逝リスト」とは違った意味で驚かされます。
これらに概ね共通しているのは(川端画学校)→美校→パリ遊学→箔をつけて帰国→団体展の中心人物となる、と言う図式です。つまり佐伯は画家として「本道」を歩んでいたのです。前回の「早世リスト」の中で佐伯と重複するのは一緒に「1930年協会」を作った前田寛治と最後まで一緒だった横手貞美ぐらい。
こうしたことから在野→一匹狼→貧困・病苦→生活破綻・人格崩壊→デカダン…といった、洋の東西を問わず一方の芸術フィールドにあるようなパターンからくる狂気や死のイメージを佐伯に見ることも出来ないというのが事実でしょう。
これでもない、「パリ症候群」でもない、やはり「米子」なのでしょうか?
その意味では「死」のイメージを作品に表出させるということが希薄であったという先の徳田医師の指摘は正しいように思います。
これは一つは佐伯が、ブラマンクとのエピソードやゴッホ、ユトリロなどへの傾倒、「パリのマティエール」にこだわり2回も彼の地を訪れたということなど、かなり自我の造形世界の追求に前向きで積極的な姿勢から、「死」などと言う「後ろ向き」のテーマを想起させられないと言うことがあると思います。
それともう一つは佐伯の画家としての現実的なポジションにもあると思います。
これまで直接間接を問わず佐伯関連で名前の上がった画家をランダムに列挙すると、レオナルド・フジタ、荻須高徳、里見勝蔵、萬鉄五郎、岡鹿之助、山口長男、小島善太郎、小出楢重、伊原宇三郎、伊藤廉、木下孝則、野口弥太郎、石井柏亭、林武…いずれもその後日本画壇の中心人物となる、うんざりするくらいの錚々たる面々です。日本画壇が今日のような裾野の広がりを持たない未だ過渡期でその世界が狭かったとはいえ、よくこれだけのメンバーが佐伯の周りに居たものとだと先の「夭逝リスト」とは違った意味で驚かされます。
これらに概ね共通しているのは(川端画学校)→美校→パリ遊学→箔をつけて帰国→団体展の中心人物となる、と言う図式です。つまり佐伯は画家として「本道」を歩んでいたのです。前回の「早世リスト」の中で佐伯と重複するのは一緒に「1930年協会」を作った前田寛治と最後まで一緒だった横手貞美ぐらい。
こうしたことから在野→一匹狼→貧困・病苦→生活破綻・人格崩壊→デカダン…といった、洋の東西を問わず一方の芸術フィールドにあるようなパターンからくる狂気や死のイメージを佐伯に見ることも出来ないというのが事実でしょう。
これでもない、「パリ症候群」でもない、やはり「米子」なのでしょうか?