昔研究所へ通っていた頃石膏デッサンのバックを黒く塗ったら教官から「10年早い!」と言われた。その意味はさほど時間を経ずして理解できた。石膏デッサンのような基礎的なアカデッミクな修行の場では、モティーフを目立たせようなどという余分な造形処理は無用である。フォルム、トーン、質・量感、立体感総て的確であるならバックは単なる紙の余白ではなく「物理的空間」として認識される。そうなるまで形を追っかけろということだ。これは私の画風では今日にまで生きている「造形真理」だ。形がいい加減だとベタッとしたバックにしかならない。
ところで真っ白を0とし真っ黒を10とした場合、白い紙にするデッサンとは0から10に向かう「プラス描画」だ。しかし石膏像は真っ白だしバックは少なくてもそれよりは暗い。したがってそれを描くというのは理屈を言うと黒っぽい紙をどんどん白くしていくという「マイナス描画」が理に適った描画であるはず。つまり石膏デッサンとは最初から「矛盾をはらんだ」造形行為なのである。
したがってどんな上手い奴が描いても石膏デッサンは黒っぽくなるはずと思って安心して「黒っぽく」描いていた。
ところが教官が合評会の時合格点をつけられた人のデッサンをカルトンごとを実際の石膏像の下に置いてみた。フォルムもトーンも寸分たがわない!あれにはショックを受けた。バックは真っ白でも空間を認識できるし石膏像も十分白い。しかもそれは「blanc」と「white」という種類の違う白だ。同じ出発点はプラス・マイナス違っていても視覚に映ずる「リアリズム」という時点でそれが合致したのだ。
バラを「マイナス描画』で描きながらそんなことを思い出した。