前回の趣旨を進める前にこの際絵の具→色彩→絵画の関係を整理してみる。
 絵の具とは顔料をメデュームで練ったもの。そのメデュームの性質によって油彩、水彩、エマルジョン、アクリル等に分かれる。その絵の具の名前は国やメーカーなどによって違う場合がある。そうした不都合をなくすため顔料を特定するほぼ万国共通の名称/番号がつけられている。これが「カラーインデックスナンバー」(以下CINと略す)である。
 したがって「オーロラ・ブルー」とか「ジャパニーズ・イエロー」(ピンとこないが)などのような、特定メーカーしかつけてない絵の具の名前の顔料名を知りたい場合は絵の具のチューブに表示されているCINを見ればよい。
 例えばカドミューム・レッドはPR108/77196、群青(ウルトラマリン)はPB29/77007、亜鉛華(ジンクホワイト)はPW4/77947である。PはPigment(顔料)、R、B,Wはそれぞれ色の英語頭文字。

 ここでおさえておくべきは絵の具とは必ずしも一絵の具一顔料で出来ているとは限らないことである。例えば渋い緑を混色で作っている人に対し、「混色はよくない、俺はサップ一本でやっている!」と威張っても、そのサップグリーン自体実に4種類のCINを持つのだ。つまり顔料レベルですでに混色されていると言うこと、これは特別な色味ほど多い。
 それからこれはある意味では当たり前のことだが、特定色調については必ずしもその色調と同じ絵の具を使う必要はないと言うこと。私は緑系のほかに「レンガ色」とか「カラシ色」とが好きだがこれにズバリフィットする絵の具はない。なにより既成品で「肌色」なんて存在しない!
 私はたまに金色を作る必要がある場合がある。金色そのものの絵の具はある。ところがこの既成のゴールドより自分で調子を組み合わせて作ったもの方が余程金色に見える。既製品のゴールドは調子もつけられないのである。色は「そう見せる」ということが全体の色調バランスからも大事なことだし混色の醍醐味でもある。

 次に黒。黒は両刃の剣のようなものと以前言った事がある。バランスを欠くとか使いすぎるとか使い方を間違うと活気のない、汚れた、ただの陰鬱な画面になってしまうが、色調の落ち着きや深み詩情の表現には欠かせないものだし、「トリニトロン効果」というのか原色の引き立て役などにも有効。
 一方白は色の彩度を落としてしまうと言う欠点はあるが、明度を上げる、遠近感を出す、ハイライトに使う、その他一般的混色で利用価値は最大の絵の具と言える。
 テンペラなど粉の顔料をメデュームに直接混ぜ込むところから作業をはじめるような画法の場合、顔料をそのまま使うと色味が強ぎてしまう。そこでそれこそ耳かき何分の一レベルの量のチタン白を予め顔料に混ぜる。これを「含み白」と言い、顔料を使う作家は多く行う。色味云々はそこから始まるのである。
 その他色味の実体が含み白を利かせて始めて認識できるという場合もある。ウルトラマリン、イタリアンピンク、ブラウンピンク、クリムソンレーキ、ヴィリジャンなど強烈な色味の透明色がそれ。

 さて上記のような色彩の画面上での展開は以下様になる。
 CIN、PV16/77742のピュアな紫があるとする。そのままだとほとんど使えない。多少色味を落としても大量に使うと下品になる。しかしごく少量遠景の森の大気にわずかにのぞかせたりするとたちどころに輝きだす。つまりこの色はピュアな状態ではそれほど使えないが、脇役スパイス効果としては有効な絵の具ということが言える。
 森に赤い車が止まっているとする。森の緑を引き立たせようとすると車の赤みを落とさなければならない。車の赤を引き立たせようとすると森の緑を渋めの押さえる。両方とも原色をつかうと互いに殺しあってつまらない絵になってしまう。それでも原色を使いたい場合は森も車も思い切ってデフォルメし野獣派のようなタッチとするしかない。
 同じ面積の黄色と青の丸がある。ところが明度差により黄色い丸の方が大きく見える。等価とするには黄色い丸を小さくしなければならない。これが明度に係るヴァルール。この応用は例えば茶色い木の枝から青空が飛び出してしまっているような絵の修正である。この場合青空に白かグレーを混ぜてトーンを落とす必要がある。

 上記三例はいずれも≪色彩とは色彩相互間のバランス、フォルムとの関係において決定される≫という事の例だ。
 縷縷述べたことで言えるのは色彩同士の混合、あるいは色味ある色彩への白、黒の混合は、大なり小なりすでに行われていることであったり、必要なことであったりするもので、必要以上に暗鬱にならない、濁らない、変色等(化学反応による)に注意さえすれば、一部で言われているような避けるべき、忌まわしいものではないということである。

 具象絵画とは早い話が「色」と「形」両方で出来ているものだ。。つまり色だけでなくフォルムの扱いも大問題。古典・写実系、印象派系、デフォルメ・野獣派系、心象・シュール系、ナイーフ系、現代美術系…ありがたいことに油彩の造形フィールドは幅広い。自分の資質や嗜好、造形思想、力量、修業の必要性その他もろもろ理由によりその扱い方も変わってくるし、選択は自由だ。前回のべたりんごの立体感や陰影のつけ方における「明度差=白黒によるグラデーション」も一応の「アカデミズム」によって立つもので、色相差、ヴァルール、色の濃淡利用など傾向に応じた手法は可能なのである。

 しかし原則的には古典派と印象派の関係を見れば明らかなように色彩とフォルムの両立は難しい。厳格なフォルムを追求すれば色彩はセーヴされるし、色彩を開放しようとすればフォルムを犠牲にすることとなる。
 それだから逆に、例えば「ダビンチには≪色彩≫はないがラファエロには≪色彩≫がある」という風の、「古典絵画の色彩論」や、色味ある色彩をつかいながらどこまでフォルムを維持できるかという「印象派のフォルム論」も成り立つ。これが絵画というものの深みであり妙味であろう。
 色は出来るだけ混ぜないと言うのはとりあえず結構なことだ。しかし縷縷述べたごとく、混色も純粋色もいかにフォルムに有効に乗っているか、絵画空間の中で秩序とバランスを保った「絵画的色彩」として成功しているかどうかでその意義が語られるもの。
 
 宮本三郎は晩年の一連の作品から名うてのカラリストと言える。しかしその鮮烈な主色彩には黒や反対色がスパイス効果として効果的に使われている。バランスにより各色彩が生かされているのである。ところが彼は元来比類なき描写力のデッサン家であった。また油彩のマティエール(画肌)の可能性を追求したと言う意味でもトップクラスだろう。晩年のほんの10数年前まで違う絵を描いていた。
 つまり最終的に至った画境とは突然降って湧いたようなものではない。その色彩は長い間のフォルムやマティエールの修練・追求の積み重ねの上にあるのである。
 絵画とはそういうものだ。
 ボナールという画家がいる。彼は「色彩の魔術師」と言われている。彼は実は「混色とマティエール」の魔術師」なのだ。