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Ψ筆者作 「曲がり角の家」F20 油彩

 前回の趣旨をもう一度まとめると以下様になる。
多くの画家は作品を常に「全体性」で捉えるという事を心がける。つまり部分を描いていても常に全体の仕上がりをイメージして描く。部分にとらわれるとバランスの悪い絵が出来上がってしまうからだ。そういう造形感覚が本能的にあるいは経験的に働くのだ。したがって今やっている事は次にやる事の「仕込み」であったり次に繋げることの土台作りであったりする。
 勿論それはそう計算づくばかりで行かない。うまく行かない事もある。逆に思いも寄らない効果を見ることもある。上手くいかなかったら直ぐに修正したい。上手く出来た部分は大事にとっておきたい。そういう心の動きそのものが面白いマティエールを生む場合もある。あるいはコクのある画面を作る。
 佐伯の画面に一貫性を感じるというのはそう言うものを感じるということである。
 そしてその画面、その段階における最良と思われる体裁を整えておきたい。そうすることは作品の仕上がり時の全体像を早めに予見できるという事にもなるし、それに応じた「造形計画」も立てられるからである。例えば建物を描いたら窓も描いておきたい。窓を描いたら窓枠も桟も描いておきたい、あるいは省略あるいは描き過ぎない、総て全体のバランスを考えてのこととなる。そういう判断は最初っから描いてる本人でなければできない。
 佐伯もできるだけ早く作品を完成に持って行きたい。しかし油彩は乾燥が遅い。佐伯が少しでも吸収の良いキャンバスに拘ったのはその工夫の現れであろう。 
  米子に画家の資質があったとするなら逆に闇雲に手を加えるということはしないだろう。なまじ手を加えない方が良い、佐伯の世界は出ている、手を加えたらかえって壊れる、そういう配慮もあるべきだろう。
 等々を考えると加筆は限られてくるという気がするのだ。
 
 上掲の作品は既にアップしたものを移動させたものである。今回アップの作品の中では最も佐伯っぽいもの。
 看板類の横文字のヴィジュアルな面白さは画面のアクセントとなる。私も早く描きたくてしょうがなかった。前記の趣旨から言っても、言わばそのような「おいしいところ」を佐伯がわざわざ残すはずがない。つまりベースを佐伯が描いて文字を米子が描くということは考えられない。
 またこれは硬い平筆による線描きと柔らかい細筆によるおつゆ描きを併用している。「二重人格」のような違和感はあるだろうか?