イメージ 1

Ψ 筆者作「サンマルタン運河」 F25油彩・吸収地

 新作のオリジナル風景画を若干アップしながら佐伯の造形性を考えてみたい。言葉では限界がある。新作といっても前に書いたように以前描いていた、どちらかというと私本来の画風のもので、それを今般の「佐伯研究」に因み半吸収地及び吸収地の古パネルに件の目的をもって描いたものである。
 乾いてなくてもどれだけ短時間で描き込めるかということ、及び米子の加筆の余地なども考察できればよいと思っている。
 半吸収地とは佐伯が作ったキャンバスのことである。仔細は別記事で述べた。吸収地の古パネルとは、パネルに麻布を貼り、その上に膠で溶いた硫酸カルシウム(石膏)を塗りテンペラ描きしたものの「出来そこない」を再生させたものである。それは当然馴染みを良くする事と「早描き」できるための処置を施してある。
 いずれもかなり粗い画面である為精密描写はできない。それゆえ委細構わない造形の構造的な部分で「勝負できる」爽快感がある。

 さて自然にはもの同士の前後関係や造形的比重が必ずある。つまりそれに応じたフォルムや色面の階層、つまり描く順序ができるはずである。こうした階層を取り去って、均一に、造形的等価を計った絵画がマティスやデュフィあるいは立体派や未来派の具象絵画ということになるが、ヴラマンンクや佐伯など野獣派系列はそこまでの「解体」はない。つまり野獣派なりのヴァルール、バランス、絵画的秩序を踏まえているが故の意義があるのである。
 上掲拙作の右上に建物のラインが残っているのが見える。これが件の描画上の階層序列を逸脱している線ということになろう。もし序列に随うならば左のように始めに建物があり次に並木があるという描き方をする。
 つまり加筆があるとすればそういう序列の最終段階のところ、拙作でいえば言えば木の枝や水門の柵のようなところに限られるはずだ。それだけではない。例えば枝を描くなら木の本体と、木を描くなら背景の建物群と、それぞれバランスの取れた、統一感のあるものとしなければならない。一人の人間なら例え筆を変えても自然にできるが、他人が加筆する場合それは至難の業である。これは個性以前の話、属人性とはそういうものだ。
 多くの佐伯の画面にはそうした不自然さは見受けられない。造形的一貫性があるのである。もし米子がやるなら序列の早い段階からやらねばならない。そうすれば違った絵となるのは明らかである。

 (つづく)