whiteorionさんが援用した≪昭和12年の「みづえ」4月号林武≫
最近欧人の間に線を用いる者多く、マチスあり、ルオーあり、デフイありユトリロありであるが彼等の線は単に幾何学的なものの在りかを区切る的のものであり、且つ長い間の自然のバラールの練磨から抽出されて来る所のもので、即ち彼等に言わせれば、写実という上からは線は寧ろ否定されているのである。然るに佐伯君の線はこの様な事におぢること無く、率直に線的であり、然もその線は東洋の書における如く線そのものが形を離れて、生命的に美しく生きているのである。然してその結果は寧ろ線の節奏によって逆にバラールを決定しようとしている。こうした新しい方法、私は之を現在の力学的写実というが、この点で誰よりも早く実行し得た1人だと思う。即ち欧人では、その伝統的な「自然に線は無し」てふ厳密な写実的観点から、線が露呈するという様な事は容易ならぬ問題であり、視覚(光の調子)の世界から抜けきる事は至難なのであるが、佐伯にあっては、力学的な調子を捉え、線の抑揚、節度によってバラールを決定しようとする。
かうした意味で施工しているのは、かの多くのポスターの貼られた壁の絵である。これらの絵は最も彼の独自性を語るものではなかろうか。しかし彼も立体的な建物の外郭を区切ったりする場合では、その翌年、モランの寺等で再三試みつつも失敗に終わり、写実という意味では線を用いないものの方が成功している。デフュエはその中期以後建物の輪郭に太い線を用いているが、その場合は面の質感を犠牲にして存在を象徴しているだけであり、ユトリロも後期の作には線を露出している代わりに質感は消えている。ただ両者ともマチエールの整理によって、全体の質感実感を失わないことを得ていると思う。佐伯の場合は甚だ短い期間で、一方に壁の質感に対する非常な魅力と、一方には東洋独自の線の駆使という矛盾があり、遂に里見の推奨して惜しむざるモラン風景や、黄色いレストランを残して、彼としてなし能ふ限りを尽くして死んでいったと私は思うのである。
≪上記に対する拙文≫
この林武の話はやや難解ながらも興味深く拝読しました。
最初これは前回の私の投稿へのレスと思ったくらいでした。というのは最後の方にある林の「一方に壁の質感に対する非常な魅力と、一方には東洋独自の線の駆使という≪矛盾≫があり、…」と言う記述は、私の前回の冒頭で書いた≪…その時いつもぶつかるのは「風景画のモティーフ」のことでした。ああいう画風の受け皿がこの国にはないように思えたのです。… これは、油絵の(広義の)マティエールとモティーフとの関係、つまり本邦における「洋画」は実は「油絵で描く日本画」ではないか、というかなり重要なテーマに思えたのです…≫という部分と対応するもののように思えたからです。
この林の「壁の質感」というのは「パリ」というモティーフ、「油絵」という素材の双方に係る象徴的な言葉と解釈されます。
伝統的ヨーロッパ絵画はヴァルールを面や立体感で捉えるものであるが佐伯は線の緊張感の疎密やリズムで捉えた、ということでしょう。
ところが私と違うのは林は「東洋独自の線の駆使」となお「東洋」にこだわっているところです。だからその後≪矛盾≫といわざるを得なくなってる。私は本邦洋画に「東洋の感性」だとか「日本人固有のウェットさ(湿気)」とか「伝統」とか言う概念を殊更導入する事には反対です。
佐伯の画業の意義とは正にそのインターショナルなところ、その意味での本邦洋画壇のパイオニア的位置にあるのではないかと思ってます。林自身「…新しい方法、私は之を現在の力学的写実というが、この点で誰よりも早く実行し得た1人だと思う。」と認めているのです。
だから「下落合はダメ」だったんでしょう。あまりに「日本的風景」だったからです。
ついでに言えば印象派は「面」の芸術ではなく「線と点(点描派)の芸術」といってよい。林の言うマチス、ルオー、デュフィ、ユトリロ、その後のベルナール・ビュッフェに至る系列など、ヨーロッパにも立派に「線」の伝統はあると思います。
最近欧人の間に線を用いる者多く、マチスあり、ルオーあり、デフイありユトリロありであるが彼等の線は単に幾何学的なものの在りかを区切る的のものであり、且つ長い間の自然のバラールの練磨から抽出されて来る所のもので、即ち彼等に言わせれば、写実という上からは線は寧ろ否定されているのである。然るに佐伯君の線はこの様な事におぢること無く、率直に線的であり、然もその線は東洋の書における如く線そのものが形を離れて、生命的に美しく生きているのである。然してその結果は寧ろ線の節奏によって逆にバラールを決定しようとしている。こうした新しい方法、私は之を現在の力学的写実というが、この点で誰よりも早く実行し得た1人だと思う。即ち欧人では、その伝統的な「自然に線は無し」てふ厳密な写実的観点から、線が露呈するという様な事は容易ならぬ問題であり、視覚(光の調子)の世界から抜けきる事は至難なのであるが、佐伯にあっては、力学的な調子を捉え、線の抑揚、節度によってバラールを決定しようとする。
かうした意味で施工しているのは、かの多くのポスターの貼られた壁の絵である。これらの絵は最も彼の独自性を語るものではなかろうか。しかし彼も立体的な建物の外郭を区切ったりする場合では、その翌年、モランの寺等で再三試みつつも失敗に終わり、写実という意味では線を用いないものの方が成功している。デフュエはその中期以後建物の輪郭に太い線を用いているが、その場合は面の質感を犠牲にして存在を象徴しているだけであり、ユトリロも後期の作には線を露出している代わりに質感は消えている。ただ両者ともマチエールの整理によって、全体の質感実感を失わないことを得ていると思う。佐伯の場合は甚だ短い期間で、一方に壁の質感に対する非常な魅力と、一方には東洋独自の線の駆使という矛盾があり、遂に里見の推奨して惜しむざるモラン風景や、黄色いレストランを残して、彼としてなし能ふ限りを尽くして死んでいったと私は思うのである。
≪上記に対する拙文≫
この林武の話はやや難解ながらも興味深く拝読しました。
最初これは前回の私の投稿へのレスと思ったくらいでした。というのは最後の方にある林の「一方に壁の質感に対する非常な魅力と、一方には東洋独自の線の駆使という≪矛盾≫があり、…」と言う記述は、私の前回の冒頭で書いた≪…その時いつもぶつかるのは「風景画のモティーフ」のことでした。ああいう画風の受け皿がこの国にはないように思えたのです。… これは、油絵の(広義の)マティエールとモティーフとの関係、つまり本邦における「洋画」は実は「油絵で描く日本画」ではないか、というかなり重要なテーマに思えたのです…≫という部分と対応するもののように思えたからです。
この林の「壁の質感」というのは「パリ」というモティーフ、「油絵」という素材の双方に係る象徴的な言葉と解釈されます。
伝統的ヨーロッパ絵画はヴァルールを面や立体感で捉えるものであるが佐伯は線の緊張感の疎密やリズムで捉えた、ということでしょう。
ところが私と違うのは林は「東洋独自の線の駆使」となお「東洋」にこだわっているところです。だからその後≪矛盾≫といわざるを得なくなってる。私は本邦洋画に「東洋の感性」だとか「日本人固有のウェットさ(湿気)」とか「伝統」とか言う概念を殊更導入する事には反対です。
佐伯の画業の意義とは正にそのインターショナルなところ、その意味での本邦洋画壇のパイオニア的位置にあるのではないかと思ってます。林自身「…新しい方法、私は之を現在の力学的写実というが、この点で誰よりも早く実行し得た1人だと思う。」と認めているのです。
だから「下落合はダメ」だったんでしょう。あまりに「日本的風景」だったからです。
ついでに言えば印象派は「面」の芸術ではなく「線と点(点描派)の芸術」といってよい。林の言うマチス、ルオー、デュフィ、ユトリロ、その後のベルナール・ビュッフェに至る系列など、ヨーロッパにも立派に「線」の伝統はあると思います。