≪このアカデミズム!≫
改めてorionさんの佐伯に対する思い入れを感じております。「練馬」鑑賞後今度ジックリ佐伯関連の書物を再読しようかと思っています。できれば佐伯の支持体を実際に作って描いてみたいとも思っています。
ざっと読んでみて感じるのは、学術、評論、市場、その他関係畑等実際に自ら絵を描いてはいない人を含めての意見が交錯してますので、描く方の視点からはなかなか現実にはそのように行かない、あるいは論理の必然通りに行かない、画家の思想や行動とは必ずし一貫性あるものとは限らないと言う点で、個人的にはかなりひっかかる部分があります。
そんな中で我意を得たりと思うものを挙げてみます。まずorionさんご提示のサイトの最後です。これは私の現在の存念に近いです。
≪…しかし私は、米子加筆品を贋作とは言わない。加筆品には、祐三が生前から承諾していたもの(書簡)が多い。祐三の死後に加筆したものもあるが、そのいずれも佐伯夫妻の合作品として、これまで通り鑑賞して、何も悪くないのではないか。そして、佐伯の単独作品より米子加筆品を好むコレクターがいるなら、画商たちが本物より高く売買しても、何の不合理もないと考える。光悦が土を捏ねて楽焼の家元に焼かせた茶碗は、楽家代々の名工の誰よりも高価である。美術品とはそんなものではないのか。
ひとつ言っておくが、生前の祐三が常に「純粋」を叫んでいたのは、俗流評伝にあるような子供じみた単純な感情とは違う。読者はご理解頂けたと思うが。 ≫
次に作家安岡章太郎の「このアカデミズム!」に関する見解です。
≪ヴラマンクが「アカデミック」と言ったのは、何も佐伯の絵が伝統的な型にとらわれたオーソドックスなものだと言う事ではない。そうでなく、一見フォーヴ風の色やタッチを使いながら、其処に「告白」がないこと、つまり主体性というか、個性的な自我と言ったものが全く感じられないといったことが、ヴラマンクをいらだたせたに違いない。…≫
これは言い当ててると思います。この「告白」を「思想」と置き換えると、ここでもブログなどでも私が再三言っていることであり自戒としていることです。
つまり「おまえたち若いもんは形からばかり入りたがって、中身がねぇんだよ!一からやり直せ!」と言っているのです。これはいつの時代にもいえる真理です。勿論「個性」も「ブタが空を飛ぶ」ようなものではありません。
改めてorionさんの佐伯に対する思い入れを感じております。「練馬」鑑賞後今度ジックリ佐伯関連の書物を再読しようかと思っています。できれば佐伯の支持体を実際に作って描いてみたいとも思っています。
ざっと読んでみて感じるのは、学術、評論、市場、その他関係畑等実際に自ら絵を描いてはいない人を含めての意見が交錯してますので、描く方の視点からはなかなか現実にはそのように行かない、あるいは論理の必然通りに行かない、画家の思想や行動とは必ずし一貫性あるものとは限らないと言う点で、個人的にはかなりひっかかる部分があります。
そんな中で我意を得たりと思うものを挙げてみます。まずorionさんご提示のサイトの最後です。これは私の現在の存念に近いです。
≪…しかし私は、米子加筆品を贋作とは言わない。加筆品には、祐三が生前から承諾していたもの(書簡)が多い。祐三の死後に加筆したものもあるが、そのいずれも佐伯夫妻の合作品として、これまで通り鑑賞して、何も悪くないのではないか。そして、佐伯の単独作品より米子加筆品を好むコレクターがいるなら、画商たちが本物より高く売買しても、何の不合理もないと考える。光悦が土を捏ねて楽焼の家元に焼かせた茶碗は、楽家代々の名工の誰よりも高価である。美術品とはそんなものではないのか。
ひとつ言っておくが、生前の祐三が常に「純粋」を叫んでいたのは、俗流評伝にあるような子供じみた単純な感情とは違う。読者はご理解頂けたと思うが。 ≫
次に作家安岡章太郎の「このアカデミズム!」に関する見解です。
≪ヴラマンクが「アカデミック」と言ったのは、何も佐伯の絵が伝統的な型にとらわれたオーソドックスなものだと言う事ではない。そうでなく、一見フォーヴ風の色やタッチを使いながら、其処に「告白」がないこと、つまり主体性というか、個性的な自我と言ったものが全く感じられないといったことが、ヴラマンクをいらだたせたに違いない。…≫
これは言い当ててると思います。この「告白」を「思想」と置き換えると、ここでもブログなどでも私が再三言っていることであり自戒としていることです。
つまり「おまえたち若いもんは形からばかり入りたがって、中身がねぇんだよ!一からやり直せ!」と言っているのです。これはいつの時代にもいえる真理です。勿論「個性」も「ブタが空を飛ぶ」ようなものではありません。