ところが芸術とは深淵と言うか厄介と言うかそれではすまない部分がある。
もしそうなら、創造者がそのような「抽出する」と言う積極的な意思を持たない、あるいは抽出すべき対象も主体も最初っから存在していない芸術はどうなるのか?
例えばシュールリアリズムの「オートマティズム」はイマジネーションの具現化を積極的に意図したものではない。ポロックなどのアクションペインティングなどは「自我の介在」を極力排するところに重要な意義がある。
というよりいわゆる「抽象画」はそう言う意義を持つものの方が多いかもしれない。
事実こういうものは「アブストラクト」(抽象)とは言わず「アンフォルメル」(非形象)と呼ばれ一時代の造形流派を為した。このアンフォルメルは抽象でも具象でもなく、あえて言うなら「創象」であろう。
また、デュシャンの「泉」辺りが源流であろうか「レディーメイド」と与ばれる既成の物質や事象のそのままの表示は、その意味、解釈、展開などについて、「作家」は「創造者」ですらなく単なる「提起者」に過ぎない。これは再度造語で言うなら「観・感象」であろう。
あるいはそれが創造されたものであっても、それの意義は物質それ自体の意義と存在に留まり、何かを抽出すべき余地を感じさせないような現代美術の一傾向もある。私はそれを≪特定芸術が分からないというのは、その「意味」を読み取ろうとするからである。それらは何も意味していない。芸術と言う「意味そのもの」だからである。≫と言っているが。
これらはいずれも一般の「抽象的」でわかんねェー!と言う感慨とは裏腹に、物質そのものをドーンと提起したものだけにこれほどの「具象」はない。言わば「純具象」である。
いずれにしろ縷縷述べたごとく、具象かと抽象かの区分けとは、本来それは創造行為に当っての姿勢と言う「入り口」部分に関する概念であるのだが、一般的には作品と言う形に結果として表れた「出口」について語られているようだ。そうした出口の表現形式が、時代に応じて具象と抽象のはざ間で揺れ動いてきたということだろう。
西洋絵画史では、当初はいろいろな要件からリアルに表現する事が求められた。そのための厳格なフォルム描写に伴ない色彩はセーブされた。やがて印象派以降にその色彩の固有の意義が注目され、それをフォルムと調和させる為のフォルムの簡略化、シンボライズ、デフォルメなどが行われ、セザンヌを経てそれらはいっそう純化され、やがてフォルムそのものが絵画空間の中で溶解してしまう。
この推移を先の出口論に立って「抽象化」と言っているだけだ。実態は創造の意義が外部対象から絵画空間そのものへ移った純造形的推移」と言うことだろう。
そこから先もめまぐるしく変わっているのである。
以前別なところで以下のような趣旨の事を書いた。
≪英語で「個人」のことをindividualと言う。これはdivide(分ける)に否定冠詞inがついたものである。つまり、個人とは宇宙の最小・最終単位で「もうこれ以上分けられない」という意味であったはず。
ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析などにより証明された。つまりさらに分けられるものであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、オートマティズムに着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫
あるいは
≪「アメリカンポップアート」における、A・ウォホールのポートレート。R・リキテンシュタインのコミック・ストリップ、J・ジョーンズの星条旗、J・シーガルの人型…それらは本来の人間社会におけるそれらの意義や機能を剥ぎ取り、全く違う形相で芸術として現れている。そのことで見事にマスメデアやテクノロジーの発達で巨大にふくれあがった人間社会のド真中から裏返しに人間や芸術を浮かび上がらせている。
つまり従来の芸術は「精神」を詰め込まれ.「個」などという厄介なものをひきずり、泣いたり叫んだり右往左往する「人間」というものを中心に考えてきた。
しかしアメリカンポップは人間を人間の側からでなく、人間の属する.それ自体自立し増殖し、モンスターのように巨大化したは背景の中から捉える。人間すら金太郎飴のようであり、薄っぺらで大量生産大量消費される哀れなもとなる。≫
上記二例は「人間」に関して、芸術として誠に力を有する「解釈の仕方」である。
芸術とは人間社会の中で存在し、人間社会に向かって何某かのメッセージを持つことに意義があるものである。しかし人間自体は変わらない。宇宙の原理も、物質の組成も変わらない。私は持論であるが芸術の「普遍性」にこそ視点を据えるべきと考えている。その普遍性を動かせない支点とするなら時代が動いている以上、はじめに具象・抽象ありきでなく、芸術はどのような形相にもなり得る。抽象、具象、創象、観・館象、純具象…。
「写実主義」やリアリズムはもとより、古典への回帰もその可能性を持つと考える。
もしそうなら、創造者がそのような「抽出する」と言う積極的な意思を持たない、あるいは抽出すべき対象も主体も最初っから存在していない芸術はどうなるのか?
例えばシュールリアリズムの「オートマティズム」はイマジネーションの具現化を積極的に意図したものではない。ポロックなどのアクションペインティングなどは「自我の介在」を極力排するところに重要な意義がある。
というよりいわゆる「抽象画」はそう言う意義を持つものの方が多いかもしれない。
事実こういうものは「アブストラクト」(抽象)とは言わず「アンフォルメル」(非形象)と呼ばれ一時代の造形流派を為した。このアンフォルメルは抽象でも具象でもなく、あえて言うなら「創象」であろう。
また、デュシャンの「泉」辺りが源流であろうか「レディーメイド」と与ばれる既成の物質や事象のそのままの表示は、その意味、解釈、展開などについて、「作家」は「創造者」ですらなく単なる「提起者」に過ぎない。これは再度造語で言うなら「観・感象」であろう。
あるいはそれが創造されたものであっても、それの意義は物質それ自体の意義と存在に留まり、何かを抽出すべき余地を感じさせないような現代美術の一傾向もある。私はそれを≪特定芸術が分からないというのは、その「意味」を読み取ろうとするからである。それらは何も意味していない。芸術と言う「意味そのもの」だからである。≫と言っているが。
これらはいずれも一般の「抽象的」でわかんねェー!と言う感慨とは裏腹に、物質そのものをドーンと提起したものだけにこれほどの「具象」はない。言わば「純具象」である。
いずれにしろ縷縷述べたごとく、具象かと抽象かの区分けとは、本来それは創造行為に当っての姿勢と言う「入り口」部分に関する概念であるのだが、一般的には作品と言う形に結果として表れた「出口」について語られているようだ。そうした出口の表現形式が、時代に応じて具象と抽象のはざ間で揺れ動いてきたということだろう。
西洋絵画史では、当初はいろいろな要件からリアルに表現する事が求められた。そのための厳格なフォルム描写に伴ない色彩はセーブされた。やがて印象派以降にその色彩の固有の意義が注目され、それをフォルムと調和させる為のフォルムの簡略化、シンボライズ、デフォルメなどが行われ、セザンヌを経てそれらはいっそう純化され、やがてフォルムそのものが絵画空間の中で溶解してしまう。
この推移を先の出口論に立って「抽象化」と言っているだけだ。実態は創造の意義が外部対象から絵画空間そのものへ移った純造形的推移」と言うことだろう。
そこから先もめまぐるしく変わっているのである。
以前別なところで以下のような趣旨の事を書いた。
≪英語で「個人」のことをindividualと言う。これはdivide(分ける)に否定冠詞inがついたものである。つまり、個人とは宇宙の最小・最終単位で「もうこれ以上分けられない」という意味であったはず。
ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析などにより証明された。つまりさらに分けられるものであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、オートマティズムに着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫
あるいは
≪「アメリカンポップアート」における、A・ウォホールのポートレート。R・リキテンシュタインのコミック・ストリップ、J・ジョーンズの星条旗、J・シーガルの人型…それらは本来の人間社会におけるそれらの意義や機能を剥ぎ取り、全く違う形相で芸術として現れている。そのことで見事にマスメデアやテクノロジーの発達で巨大にふくれあがった人間社会のド真中から裏返しに人間や芸術を浮かび上がらせている。
つまり従来の芸術は「精神」を詰め込まれ.「個」などという厄介なものをひきずり、泣いたり叫んだり右往左往する「人間」というものを中心に考えてきた。
しかしアメリカンポップは人間を人間の側からでなく、人間の属する.それ自体自立し増殖し、モンスターのように巨大化したは背景の中から捉える。人間すら金太郎飴のようであり、薄っぺらで大量生産大量消費される哀れなもとなる。≫
上記二例は「人間」に関して、芸術として誠に力を有する「解釈の仕方」である。
芸術とは人間社会の中で存在し、人間社会に向かって何某かのメッセージを持つことに意義があるものである。しかし人間自体は変わらない。宇宙の原理も、物質の組成も変わらない。私は持論であるが芸術の「普遍性」にこそ視点を据えるべきと考えている。その普遍性を動かせない支点とするなら時代が動いている以上、はじめに具象・抽象ありきでなく、芸術はどのような形相にもなり得る。抽象、具象、創象、観・館象、純具象…。
「写実主義」やリアリズムはもとより、古典への回帰もその可能性を持つと考える。