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Ψ 筆者作「青い星」F30 油彩

(再編集記事)

 仏教など東洋哲学において、「無為」(永劫不変・永遠とか絶対)、「有為」(諸行無常、万物流転)と言う一見違背する二つの概念が存する。これは私の解釈では、森羅万象をその「本質」と「現象」に分けその「存在」と「展開」のしかたを説明しようとしたのではないかと思う。
 これを現下の人間社会に当てはめれば、芸術・宗教・哲学などはその本質(ハード)に関わるもの、政治・経済・テクノロジー・法律・情報メディアなどは現象(ソフト)に関わるものと便宜上区分されるのではないか。因みに医学や宇宙物理学、遺伝子工学などはその両方にまたがっているような気がする。科学者や医者などに芸術や宗教に造詣が深い人が多いが、真理を追求する過程でその世界の深奥さや解答不能の神秘に出会い、そうしたものへ関心が及ぶということもあるのではないかと思ったりする。

 さてそのソフトは日進月歩、めまぐるしく変貌するが、ハードの方は変わっているようで実は本質は余り変わっていない。人間は相変わらず「愚か」で「脆弱」で「矮小」であり、依然「迷える子羊」なのである。だからこれを救うべき、あるいは生きるべき指針を与える宗教の教義は、カトリックの「ビックバン宇宙」や「進化論」、「地動説」等の是認を除き、2000年前とほとんど変わっていない。
 芸術もハードに関わるものである以上、その価値ある芸術とは洋の東西、古今を越え普遍的なものであるはず。人間が変わらないものとするなら、様式、表現形式の変貌はあるにしても、そのメッセージの本質が時代や場所に応じて変ったものになるはずがない。

 一方芸術には固定された定義や資格要件はない。だからものは言いようで、ゴミでも「アート」は名乗れる。事実世に「アート」や「アーティスト」を冠されるものは数多ある。しかしそれにもかかわらず、「芸術」として語られるべきは、絵画芸術で言うなら、陳腐な表現だが、「美」があり「感動」があり、思想を含めた人間の内面に直接訴えかけるものがあり、それを感じさせるための才能とか一定に練磨されたスキルにより、色や形などが活かされているということであろう。つまりそういういろいろな「約束事」を受け入れ、絵画という共通土俵にあがるということが絵画芸術としての妙味であり、話はそこから始まるのであって、絵画芸術の歴史も野放図にそういうタガをはずしたところには成立していない。

 そうはいっても画家自身が常にそういう「義務感」を背負って創造に望んでいるわけではない。例えばゴッホ、ゴーギャン、ユトリロ、セザンヌ、モデリアーニ、佐伯…などの画家達の芸術の迫力とは、ある意味で「追い詰められた自我(エゴ)」の中で人生に向かって何ができるか、何をやらなければならないか、何が残るか、何を表現するかという、生きながら死に臨んだ時と同じように自分自身のことしか考えられないという、ギリギリのとこがそのままその芸術の迫力になっているのではないかと思う。
 人間は、「社会性」によって規定される「相対自我」とは別に、いつか向き合わなければならない「絶対自我」と言うようなものがある。結果としての作品の形相はいろいろあるとして、真の芸術とはこの絶対自我に向き合ったものからしか生まれない。なにより各創造史が示しているのである。

 私はこれを芸術家の思想と呼び、それがテーマを生み、件の創造に結びつくと考えている。勿論その限りにおいてウソもハッタリもない。そうだからこそその「真実」が受け手の側の真実に結びつき、件の美意識や感動として共有されるのである。つまり当初は第一義として「エゴ」を追求したはずのものであっても、純粋で真実であるが故に、逆に等しく人間に通い合う普遍性を持つ。

 ところで「社会」とはその安定した秩序のために、一定の資格要件をクリアした、「善良な」相対自我同士が、「危なっかしい」絶対自我を選別・排除しつつ成立っている。
 商業主義やテクノロジーやマスメデイアといえるものは生産社会の要請に応えて生まれ、生産社会としてのメカニズムに終始する、それ自体が巨大な社会として肥大化して独自の「アート」も生む。しかし、そう言うものには「絶対」と「相対」の隙間を埋める力はない。その多くが営利主義、コミネタ(市民的コミニュケーションネタ)、刹那的・快楽的、流行りものであるので社会の病弊を晒すことはあっても、「絶対」のとこまでは届くことがない。そういうものに件の自我も真実も普遍性もあるなずもない。

  私は常々思っている。≪表面的にだけ新しいものというのはそれ故に時間が経つと古くなる。≫もとより芸術に賞味期限も現役引退もない。価値のあるものは時空を超越した普遍性に結びついて真の芸術として生き残るだろう。時代に迎合し流行を追い求めれば必ず時代に取り残され行き場を失うだろう。
 少なくても、ホンモノとニセモノの区別がつかず、思想もなく、自己の創造行為にプライドもポリシーも持てず、足は別の所において首だけ「芸術」の世界に出しているような「画描き」にだけはなりたくない。