新イスラエルは1948年に建国されるが、その決定的要因がナチスドイツによるホロコーストであるにしても、建国の動き自体はそれ以前からあったことは第一回シオニスト会議が第一次世界大戦前に行われた事からも明かだが、その第一次世界大戦中にアラブのアイデンティティを蹂躙するような象徴的な出来事があった。
当時中東地域は衰退期のオスマン帝国の支配下で先住のアラブと建国の機をうかがうユダヤとの間に緊張した状況があった。そして1914年 第一次世界大戦勃発。
欧州、中東を舞台とする第一次大戦はドイツ、オーストリア、イタリア(後に協商側に転ずる)の「同盟」とイギリス、フランス、ロシアの「協商」が対立する事となったが、イギリスと中東の利害を争うオスマン帝国は「同盟」側についた。
そこでイギリスは1915年「フサイン・マクマホン協定」と言うものをアラブ側と結ぶ。これはアラブがオスマンに抵抗をすれば、オスマン崩壊後はアラブの独立を認めるというものである。これによりアラブはオスマンへの反乱に立ち上がる。この時「活躍」したのが「アラビアのロレンス」たるトーマス・エドワード・ロレンス。
ところがイギリスは同時期に上記とは全く違背することを別に二つやっていた。一つは1916年の「サイクス・ピコ協定」。イギリスが「協商」の盟邦フランスとロシアとの間で結んだ秘密協定。オスマン駆逐後のアラブ地域を英仏で分割統治し、三大宗教の聖地を含むパレスチナは国際機関管理下におくというもで、アラブの主体的意思決定を存在させない秘密協定で、後にアラブ民族の怒りを買ったものであった。
さらにイギリスは「バルフォア宣言」と言われるユダヤ有力者宛書簡をもって、戦争への協力と引き換えに、パレスチナにおけるユダヤ国家の建設を認めるという、あきらかに前二者を含めそれぞれ矛盾する施策をとったのである。
大戦終結後の1920年のサンレモ講和会議において今日のアラブ諸国の領土区分となる、旧オスマン領土の分割が為される。その後イギリスはパレスチナの委任統治権を得るが、一連の措置は多数の先住アラブ人の利益や意向の反映されない、列強の利害と思惑によって為されたもので、その後の混乱のタネがこの辺に撒かれたといえよう。
これ以降の経緯は以下に詳しいので割愛する。好ましからざる「テロの故郷」のような歴史だ。
http://www3.ocn.ne.jp/~d063yxbe/mid_east.txt
ユダヤももとより生存権はある。ホロコーストなど論外である。もともとの原因は差別や迫害という人類の罪なのだ。しかしこと中東問題に関しては欧米列強のご都合主義、利己主義とイスラエルの強引さを感じざるを得ない。アラブ民族の尊厳と主体性を一貫して自己の利益に劣後させたというところに原因を感じるのである。
ある場所で平和に暮らしていた家族のところへ突然別の家族がやってきて、「ここは2000年前自分達が住んでいたところだ。神様のお墨付きも得ている。出て行かなければ追い出すことも神様から許可されている。出て行け!」これがシオニズムであり出来た国がイスラエルだ。こうして追い出された集団が「パレスチナ難民」であり、それが先鋭化したのが「パレスチナ・ゲリラ」である。
ユダヤは確かに優秀な民族であろう。多くの芸術家も生んだ。2000年余にわたる「ディアスポラ」の過程でそれぞれ根を下ろした国で各分野にわたりエスタブリッシュ的な地位も獲得した。特に経済でのユダヤ資本の力は大きい。アメリカにおいては「ユダヤロビー」が国を動かしているといってよい。アメリカはいつもイスラエル寄りの施策をとる。モノや金、軍事技術、兵器の供与は推して知るべし。イスラエルの軍事力はアラブ諸国のGDPを全部足してもそれを上回るほどのものらしい。アラブが何度戦争してもあの小国には勝てない。
アラブの財産たる石油も欧米資本と地元の王族らによって独占され自らにはその利益は還元されない。土地は痩せている、その土地すらからも追い出される。何度戦争しても負ける。土台持ってる道具が違うからだ。こうした事が積み重なり次第にアメリカ、イギリスへの憎しみはつのリ、パレスチナという地域紛争を超え全イスラム圏を巻き込み世界へ広がっていったのである。
「イスラムの国がイスラムでない国に支配されるのはイスラム法違反」。フセイン残党でない勢力がイラクから立ち去れ」と自爆テロを行うのはこの思想によるものだろう。ウサマ・ビンラディンは直接パレスチナとは関係ないイエメン出身の王族である。他にアフガンとかパキスタンとかもパレスチナ紛争の当事者ではない。
ことはパレスチナという地域紛争を核として、件のイスラム教のメンタリティーと絡んだ民族と宗教の問題、先進列強と第三世界の経済格差、アメリカの単独種覇権主義と国連の機能など今日全世界規模で抱える問題として捉える必要がある。そうでない、力の政策だけでは絶対にテロを無くす事は出来ないだろう。
当時中東地域は衰退期のオスマン帝国の支配下で先住のアラブと建国の機をうかがうユダヤとの間に緊張した状況があった。そして1914年 第一次世界大戦勃発。
欧州、中東を舞台とする第一次大戦はドイツ、オーストリア、イタリア(後に協商側に転ずる)の「同盟」とイギリス、フランス、ロシアの「協商」が対立する事となったが、イギリスと中東の利害を争うオスマン帝国は「同盟」側についた。
そこでイギリスは1915年「フサイン・マクマホン協定」と言うものをアラブ側と結ぶ。これはアラブがオスマンに抵抗をすれば、オスマン崩壊後はアラブの独立を認めるというものである。これによりアラブはオスマンへの反乱に立ち上がる。この時「活躍」したのが「アラビアのロレンス」たるトーマス・エドワード・ロレンス。
ところがイギリスは同時期に上記とは全く違背することを別に二つやっていた。一つは1916年の「サイクス・ピコ協定」。イギリスが「協商」の盟邦フランスとロシアとの間で結んだ秘密協定。オスマン駆逐後のアラブ地域を英仏で分割統治し、三大宗教の聖地を含むパレスチナは国際機関管理下におくというもで、アラブの主体的意思決定を存在させない秘密協定で、後にアラブ民族の怒りを買ったものであった。
さらにイギリスは「バルフォア宣言」と言われるユダヤ有力者宛書簡をもって、戦争への協力と引き換えに、パレスチナにおけるユダヤ国家の建設を認めるという、あきらかに前二者を含めそれぞれ矛盾する施策をとったのである。
大戦終結後の1920年のサンレモ講和会議において今日のアラブ諸国の領土区分となる、旧オスマン領土の分割が為される。その後イギリスはパレスチナの委任統治権を得るが、一連の措置は多数の先住アラブ人の利益や意向の反映されない、列強の利害と思惑によって為されたもので、その後の混乱のタネがこの辺に撒かれたといえよう。
これ以降の経緯は以下に詳しいので割愛する。好ましからざる「テロの故郷」のような歴史だ。
http://www3.ocn.ne.jp/~d063yxbe/mid_east.txt
ユダヤももとより生存権はある。ホロコーストなど論外である。もともとの原因は差別や迫害という人類の罪なのだ。しかしこと中東問題に関しては欧米列強のご都合主義、利己主義とイスラエルの強引さを感じざるを得ない。アラブ民族の尊厳と主体性を一貫して自己の利益に劣後させたというところに原因を感じるのである。
ある場所で平和に暮らしていた家族のところへ突然別の家族がやってきて、「ここは2000年前自分達が住んでいたところだ。神様のお墨付きも得ている。出て行かなければ追い出すことも神様から許可されている。出て行け!」これがシオニズムであり出来た国がイスラエルだ。こうして追い出された集団が「パレスチナ難民」であり、それが先鋭化したのが「パレスチナ・ゲリラ」である。
ユダヤは確かに優秀な民族であろう。多くの芸術家も生んだ。2000年余にわたる「ディアスポラ」の過程でそれぞれ根を下ろした国で各分野にわたりエスタブリッシュ的な地位も獲得した。特に経済でのユダヤ資本の力は大きい。アメリカにおいては「ユダヤロビー」が国を動かしているといってよい。アメリカはいつもイスラエル寄りの施策をとる。モノや金、軍事技術、兵器の供与は推して知るべし。イスラエルの軍事力はアラブ諸国のGDPを全部足してもそれを上回るほどのものらしい。アラブが何度戦争してもあの小国には勝てない。
アラブの財産たる石油も欧米資本と地元の王族らによって独占され自らにはその利益は還元されない。土地は痩せている、その土地すらからも追い出される。何度戦争しても負ける。土台持ってる道具が違うからだ。こうした事が積み重なり次第にアメリカ、イギリスへの憎しみはつのリ、パレスチナという地域紛争を超え全イスラム圏を巻き込み世界へ広がっていったのである。
「イスラムの国がイスラムでない国に支配されるのはイスラム法違反」。フセイン残党でない勢力がイラクから立ち去れ」と自爆テロを行うのはこの思想によるものだろう。ウサマ・ビンラディンは直接パレスチナとは関係ないイエメン出身の王族である。他にアフガンとかパキスタンとかもパレスチナ紛争の当事者ではない。
ことはパレスチナという地域紛争を核として、件のイスラム教のメンタリティーと絡んだ民族と宗教の問題、先進列強と第三世界の経済格差、アメリカの単独種覇権主義と国連の機能など今日全世界規模で抱える問題として捉える必要がある。そうでない、力の政策だけでは絶対にテロを無くす事は出来ないだろう。