デッサンといってもいろんな意義があるが、ここでは「造形訓練」に因むものといってよい。
 特定のものをそのものらしく描くにはそれの形、色、調子(トーン)、立体感、量感、質感などを的確に捉えることが要件とされる。これは数ある絵画のあり方のアカデミズム→リアリズムと言う分野で厳格に追究されるものであるが、美大入試などをめぐる造形世界の入り口部分で盛んに行われているごとく、一般的にも絵画の「基礎」として捉えられている。

 例えば自然を描く場合、山のマッス(塊)は量感、ものの存在はフォルムの処理、遠近法や空の透明感はトーンやヴァルール、木立や水のリアリティは質感…いずれも件のアカデミックなデッサンの教えるところの実景における展開である。こうしたものが破調なく、安定しているとバランスのある絵、スケールや空気など臨場感や味わいが感じられる「活きた絵」ということになる。勿論これは人物画や静物画にも該当すこと。

 これらは必ずしも石膏デッサンのようなものを通じてばかりでなくタブロー制作の過程でも学べることではあるが、タブローには色を塗ると言うそれ自体難しい作業があり、そうした手続きを省いたモノクロームのデッサンの方が効率的ということができよう。

 要はそうしたことを通じて立体感とはこういうもの、質感とはこういうものという認識を持つこと自体が大事なのであって、厳格な写実主義でもとらない限り必ずしもそれらを100%マスターせよということではない。また上記のようなアカデミックな概念は、前回述べたような色や形そのものの「絵画的効果」で語るべき、自由で奔放な絵、イメージ画のようなものにもただちに適用されるというものではないということを一言付け加えておく。

 さて「活きた絵とは何んぞや!?」ということで縷縷述べて来たが、最後に絵画芸術の本質のようなことについてちょっと触れておきたい。

 最近目にする本邦の絵画芸術について「思想」のある作品が余りに少ないと感じている。
 ヨーロッパ芸術は古くから、絵画に限らず例えば映画のユーロリアリズム風の、人間社会の好ましからざる部分も含めて総てをテーマとして直視するという姿勢がある。元々日本もそういう文化的土壌はあったのだが、最近は私が≪明るく楽しく、ハッピーカムカム、「自由と正義の担い手たる」勧善懲悪のご都合主義文化≫と詠んでいる(実は今詠んだのだが)アメリカ流文化に占領されてしまって、すっかりものごとをシリアスに受け止めるということが苦手な文化芸術になってしまったとの感がある。他人事ながらそれでいいのかい?と言う念を禁じえない。
 
 ともかく、この場合の「思想」とは勿論政治的イデオロギーや哲学や宗教の理念体系のようなものではない。また「売れたい」とか「評価を得たい」とかいう意思は当然あっても良いものだが、これは思想ではない。
 先に≪絵画とは、自我が解釈する世界、自我のフィルターを通して見る世界、自我の「思想」を投影させた世界、自我がイメージする世界、自我が作り出したい世界、その具現化に他ならない。≫と述べた。
 
 美術史上の多くの画家の画業が、陳腐な表現だがアイデンティティとかレゾンデートルとか言われる、自己の人生と絡めた、かなりシリアスなものと繋がって展開したものであった、との印象を持つ。逆にそう言う意味での物語性がその画業を助けているとさえ言える部分もあるかもしれない。

 つまりかなり退っ引っぴきならないとこから自己主張が生まれ、それが創造へのモテベーションと繋がっているのである。自分が存在する世界はこうであり、そこに存在する自分はこうだから、自分の創造行為はこうあるべきだと言うところから来る、取捨選択し、希求し、追究するというその画家なりの「テーマ」が生まれる。売れる売れないは二の次。そのテーマの根拠となるものが思想だ。これらがほとんど見えて来ない!

 「個性」だ「感性」だと言葉だけでは言うがちっともそういう意味では個性的でない。「芸術は爆発だ、革命だ」言ってもスタイルや形から入っているだけではどうにもならん。流行りものや手練手管には熱心だが肝心の足が地に着いてない。昔はその作品を見るたびに喧嘩を売られているような気がする作家もいた。己が甘さを思い知らされる作家もいた。
 活きた絵を描くには自分が活きてないとね!(自戒をこめて)