時々「そも絵画芸術とは何か?」と考えさせられることがある。長いこと描いていると良い意味でも悪い意味でも後に引けない確信のようなものができてくるせいか、最近は自身の問題として分からなくなってくると言うことはあまりなくなってきたが、目を外に向けると正直「どうしてあんなものが…」という感慨を抱くことが多い。

 社会背景や人間社会の意識の変化に応じて芸術の価値基準も変化し得るという説があるがこれは違う。その歴史を見れば様式の変化にも関わらずその本質的意義は一貫したものが見られる。価値のある芸術とは時空を超えて普遍的というのが私の信念だ。この辺りはここでは触れない。

 勿論これは自分自身にも終生関わってくるテーマであるので、全く自己をタナ上げして軽々に論じられるものではないが、幸か不幸か私は自ら描く者であると同時に美術史学徒でもあるので、傍目八目的に客観的にそれを見る訓練は多少できてるし、支払った「授業料」相当分のことぐらい語ることも許されると思う。

 さて、芸術に因みよく「感動」とか「個性」という言葉が使われる。同時にそれは芸術以外にも使われる。
 「感動」で言うならそれは自然の美しさとか大宇宙の神秘とか動植物の生殖とかあらゆるところで使われる言葉だ。しかしそれは芸術「的」であっても芸術そのものであるとは言えないだろう。芸術のとりあえずの要件とは≪人間が創造したもの≫ということが言えそうである。

 ともかくもその感動とそれに基ずく創造的モティベーションについて私は折に触れ以下のような趣旨のことを言って来た。
 ≪感受性とか造形感覚とか才能とかいうものは確かに存在する。しかしそれはその限りでは「浮遊霊」のようなもので、それが「始めてそういうものとして論ぜられる」のは作品と言う具体的「容れもの」に入れられた時なのである。人類の創造史とは、「浮遊霊」をその容れものにどのように入れ、どのようなものなものにするか、と言う方法論、技術論に他ならない。≫と。

 念のために言えば、絵画芸術とは、何も専門にその道を勉強、高度な知識や技術を持ったものでなければアプローチできないというものではない。老若男女、幼稚園児、ボケ老人、心身の障害者・健常者、ベテラン、ビギナー等々を問わず、それぞれの立場で、場合によっては最高レベルの芸術にいたることさえ可能というのは、アンリ・ルソー、グランマ・モーゼス、山下清などがそのことを証明している。

 勿論、画壇とか市場とかいう特定の社会性、あるいは学術、評論分野的位置づけなど別次元の話もあるが、基本的には絵画、特に洋画の世界はそういうものであり、例えば音楽芸術が相当レベルの訓練と技量を必要とするのに比べそれなりにアプローチできそれなりに鑑賞される可能性のある「ありがたい」芸術と言えよう。(逆に言えばそれだけ難しいということもあるのだが。)
 しかし、そういうもであっても件の由により技術論・方法論が免除されることにはならない。どんな自由奔放な、あるいは本能の赴くままに描かれたものでも分析すれば必ずそれを語ることができる。

 問題は、「ただ描けばよい」というものではない。例えば赤いリンゴで言うなら表現力不足によって赤い丸にしか見えないということも、ただ写真に撮ったようなものであってもならない。あくまでも絵画芸術として意義あるものつまり、絵画という形式に、創造者により芸術としての生命を吹き込まれたものでなければならない。言い換えるとそうでないものはただ描かれたものということができるだろう。

 絵画にはいろいろな表現、造形の可能性があるので一概に「こういうもの」と括る事は難しい。それにも関わらず、「芸術としての意義のある絵、活きた絵」と「ただ描かれただけの活きてない絵」と言うのは確実に存在する。早い話が画家、創造者の価値とか才能とかいうのはそのメルクマールにあるといってよい。
 それではその、「芸術としての意義のある絵、生命を吹き込まれた活きた絵」とはどのようなものであろうか?
 別途思うところを記したい。