マスコミのタテマエとして「不偏不党、公正中立」というのがある。趣旨は「与党もダメだが野党もダメ、どっちも批判する」という立場である。一見もっともらしく聞こえるがどこか胡散臭い。大事な事を忘れている。与党とは政府を構成し、その意味で権力があるということである。権力のある方と無い方との中間と言うのは「公正中立」と言えるのだろうか?
「不偏不党、公正中立」の名の下に、結局はどっちつかず、二股膏薬、権力もある方もない方も同等に扱うというのは、そういう形で権力の存続に力を貸すという事だ。つまり実態として「体制支持・保守」に過ぎない。
戦後60年、「一党独裁」、対米追随、利権・金権政治、官僚壟断の体制をほとんど一貫して存続せしめたと言うのは事実である。こんな国は他にない!
そうだとすると、変革を好まない、寄らば大樹、事勿れ主義、右向け右、全体進め!の管理され易い国民性について、マスコミは良いコントロール機関だったと言わざるを得ない。
権力を持つエスタブリッシュメントとは常に世界を自分達の都合の良い方向に持っていこうとする。国家は国土やそこに住む民衆を維持・管理する「合理的」機関に過ぎない。法律はそれらの原則論、方法論と技術論、政治家や役人は政治力や許認可権を背景として権力維持を図る。経済はモノカネで人心を支配する。マスコミは所詮商業主義。結局は自らの利益に適うよう特定の事象や話題について世論操作、世論誘導。
「明るく、楽しく、刹那的、快楽的」なマスコミ文化は、あたかも政治経済が「豊かな物質と便利な暮らし」で頬をひっぱたいて批判精神を黙らせがごとき役割を果たしたのである。
そうした中、何が個々の人間性のレベルで向き合えるのか?真の文化・芸術しかないではないか!「真の」とは国家やマスコミ等から「提供される」文化価値ではないと言う意味である。
文化・芸術とは一言で言えば≪人間が人間である為の最後の砦≫である。この砦が陥落したら人間が人間でなくなる。人間が人間でなくるとは、「生産社会の一パーツ」に過ぎなくなること、五感の欲望や快楽を満たすだけの動物になること、いいように国家権力に管理される「もの言わぬ民」になること、戦争や環境汚染、薬害、人災で殺されること、脳細胞が低俗文化で汚染され「一億総白痴化」することである。
文化芸術が「不偏不党・公正中立」を標榜し権力側と非権力側の中間にヒストグラムの針を常に置いておくという必要はない。逆に非権力の側にそれをおいてこそ、国家の暴走を食い止め、人間が、人間ならざる得体のしれないものに管理・支配され、あらぬ方向に持っていかれる事を防ぐ力となる。
五感を覚醒せしめ、批判精神を眠らせない、その使命を持つのが文化・芸術であるはず。
然るに現状はどうか?「文化人」なるものの多くは結局は保守である。保守とは「現状を良し」とするものである。現状を良しとするなら「文化」である必要はないではないか!なぜなら文化とは≪人間そのものを含め、良しとし得ない現実について≫の問題意識や批判精神や自己啓発・向上心から生み出される智恵や創造力の産物だからである。
小賢しい能書きなど必要ない。それくらいのエネルギーはをこの自律共同体は有り余るほど持っているのである。
中立どころか権力側、反動的ですらある。曰く、昔の日本に比べて良い、共産主義に比べて良い、北朝鮮に比べりゃ天国…カビのはえたような常套句。年間5万人超の自殺者など屁でもないのだろう。
結論を端的に言えば、文化・芸術とは権力のない側の立場に立って、「一方的に」権力を批判・監視すれば良いのである。「敵」は金も権力もある。何も中間に立つ必要はない。
そして権力が移動したらその権力について今度は同じように対処すればよい。
具体的にはどうすれば良いか?単純である。純粋で真実であれば良い。世の中ウソだらけである。だからウソのないものが力を持って大きな存在になること、それ自体が意義があるのだ。
弱さや愚かさなど「負」の部分を含めた人間にも向き合うことだ。
それが、稼得能力や社会的地位だけで人間の価値を評価するようなウソ社会から真実を引き出すことになる。
創造者や表現者は、自由に、精一杯自我の真実を曝け出し、受け手も周りに付着した余分な情報を排し、自我の純粋な感覚や嗜好で受け止め、作品そのものを評価すればよいのである。
少なくても私はそうありたいと思う。だから「人間や芸術・文化」の自由と尊厳に攻撃的なものには抵抗する。官製のお仕着せエセ文化には反対する。アメリカのご都合主義的世界戦略に迎合する一切には反対する。
各種権威主義、商業主義に飲み込まれた「アート」、実(じつ)のないコミニュティー、市民的分別主義、どっちつかずのニュートラル主義…ホンモノを見抜く努力からしなければいけない。いろいろ眉に唾つけてみ見なければならない。…疲れる。
「不偏不党、公正中立」の名の下に、結局はどっちつかず、二股膏薬、権力もある方もない方も同等に扱うというのは、そういう形で権力の存続に力を貸すという事だ。つまり実態として「体制支持・保守」に過ぎない。
戦後60年、「一党独裁」、対米追随、利権・金権政治、官僚壟断の体制をほとんど一貫して存続せしめたと言うのは事実である。こんな国は他にない!
そうだとすると、変革を好まない、寄らば大樹、事勿れ主義、右向け右、全体進め!の管理され易い国民性について、マスコミは良いコントロール機関だったと言わざるを得ない。
権力を持つエスタブリッシュメントとは常に世界を自分達の都合の良い方向に持っていこうとする。国家は国土やそこに住む民衆を維持・管理する「合理的」機関に過ぎない。法律はそれらの原則論、方法論と技術論、政治家や役人は政治力や許認可権を背景として権力維持を図る。経済はモノカネで人心を支配する。マスコミは所詮商業主義。結局は自らの利益に適うよう特定の事象や話題について世論操作、世論誘導。
「明るく、楽しく、刹那的、快楽的」なマスコミ文化は、あたかも政治経済が「豊かな物質と便利な暮らし」で頬をひっぱたいて批判精神を黙らせがごとき役割を果たしたのである。
そうした中、何が個々の人間性のレベルで向き合えるのか?真の文化・芸術しかないではないか!「真の」とは国家やマスコミ等から「提供される」文化価値ではないと言う意味である。
文化・芸術とは一言で言えば≪人間が人間である為の最後の砦≫である。この砦が陥落したら人間が人間でなくなる。人間が人間でなくるとは、「生産社会の一パーツ」に過ぎなくなること、五感の欲望や快楽を満たすだけの動物になること、いいように国家権力に管理される「もの言わぬ民」になること、戦争や環境汚染、薬害、人災で殺されること、脳細胞が低俗文化で汚染され「一億総白痴化」することである。
文化芸術が「不偏不党・公正中立」を標榜し権力側と非権力側の中間にヒストグラムの針を常に置いておくという必要はない。逆に非権力の側にそれをおいてこそ、国家の暴走を食い止め、人間が、人間ならざる得体のしれないものに管理・支配され、あらぬ方向に持っていかれる事を防ぐ力となる。
五感を覚醒せしめ、批判精神を眠らせない、その使命を持つのが文化・芸術であるはず。
然るに現状はどうか?「文化人」なるものの多くは結局は保守である。保守とは「現状を良し」とするものである。現状を良しとするなら「文化」である必要はないではないか!なぜなら文化とは≪人間そのものを含め、良しとし得ない現実について≫の問題意識や批判精神や自己啓発・向上心から生み出される智恵や創造力の産物だからである。
小賢しい能書きなど必要ない。それくらいのエネルギーはをこの自律共同体は有り余るほど持っているのである。
中立どころか権力側、反動的ですらある。曰く、昔の日本に比べて良い、共産主義に比べて良い、北朝鮮に比べりゃ天国…カビのはえたような常套句。年間5万人超の自殺者など屁でもないのだろう。
結論を端的に言えば、文化・芸術とは権力のない側の立場に立って、「一方的に」権力を批判・監視すれば良いのである。「敵」は金も権力もある。何も中間に立つ必要はない。
そして権力が移動したらその権力について今度は同じように対処すればよい。
具体的にはどうすれば良いか?単純である。純粋で真実であれば良い。世の中ウソだらけである。だからウソのないものが力を持って大きな存在になること、それ自体が意義があるのだ。
弱さや愚かさなど「負」の部分を含めた人間にも向き合うことだ。
それが、稼得能力や社会的地位だけで人間の価値を評価するようなウソ社会から真実を引き出すことになる。
創造者や表現者は、自由に、精一杯自我の真実を曝け出し、受け手も周りに付着した余分な情報を排し、自我の純粋な感覚や嗜好で受け止め、作品そのものを評価すればよいのである。
少なくても私はそうありたいと思う。だから「人間や芸術・文化」の自由と尊厳に攻撃的なものには抵抗する。官製のお仕着せエセ文化には反対する。アメリカのご都合主義的世界戦略に迎合する一切には反対する。
各種権威主義、商業主義に飲み込まれた「アート」、実(じつ)のないコミニュティー、市民的分別主義、どっちつかずのニュートラル主義…ホンモノを見抜く努力からしなければいけない。いろいろ眉に唾つけてみ見なければならない。…疲れる。