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Ψ筆者作「パンセ」F0 油彩

Cogito ergo sum  コギト・エルゴ・スム
Je pense donc je suis ジュ パンセ ドンク ジュシ

 いずれもデカルトの「我思うゆえに我あり」と訳されるラテン語とフランス語。

 世界は懐疑に満ちている。もし自らがそこに漫然と存在しているだけなら自らもその懐疑に同化されてしまい自我を見失う。しかし疑いや批判精神を持って世界に接すれば、そういう思惟しているという事実については主体的行為であるのでその限りで自我は存在できるのである。つまり自我が自我として存在し続けるためには思惟しつづけなければならない。思惟あるところに思想が生まれ思想なくしてテーマもありえない。

 国家も生産社会もマスメデイアもそれ自体が自律する一つの巨大な生命体である。早い話がそれらは自らの生命維持と利害関係のメカニズムに終始出来れば個人なんてどうでも良いのだ。
 ボケーっとしてると飲み込まれ翻弄される。さすれば答えは一つ、自我や自我の人生を大事にしようと思うなら「疑い」、「批判」しよう!

 「法律」も「民主主義」も「情報」も、「提供される文化・芸術の価値」も総て本当に正しいのか、それでよいのか自我の内部で反芻しよう。
 おまえが少少の理解を示さなくても敵は十分強いのだ。金も権力を持っているのだ。おまえが人間的レベルで悩んだり苦しんだりしているとこまでは絶対に下りきてくれない。

 我々個々はそれらに比べれば吹けば飛ぶように脆弱であり人生も短い。どっちつかずのインチキ野郎が多すぎる。精一杯自己主張しよう。……と解釈している。

 故に「我描く故に我あり」