印象派は自然や人間の捉え方について美術史上正に革命的なエッポクを画した。例えば「色彩」について「ニュアンス」を導入したと言うのはその一例であろう。「ニュアンス」とは従来の「混色」、「並置」、「透層」(別項)と言った色の混合法を一層多様・多彩化したということである。

 例えば「りんごは赤」と言う固有概念を突き破り、緑や青、紫などを光の当り具合などに応じそのまま赤に描き加える、背景もモノトーンではなくいろいろな色味を持たせたり、モティーフと背景が響きあうようなハーモニーを醸し出すためりんごの赤味を背景にも入れたり、「スパイス効果」をはかり効果的な色味を散らしたりするなど、色彩中心の絵画空間の創造を美術史上初めてやったのである。

 一方古典派は厳格なフォルムの追及がベースなので、リンゴの影を青く塗るなどというリアリズムの秩序を崩すようなことはできない。モティーフにリアリズムを持たす以上背景も物理的空間としてリアリティーを与えなければならない。多彩な色で美しいがモヤーッとしてしてしまうわけにはいかないのである。

 つまり、りんごの例で分かりやすく言えば古典派は影に黒を入れ印象派は影に青を入れるということになる。 
 別項でこうした事を便宜上「フォルム派」、「色彩派」という言い方をしたが、逆に言えばそれぞれにそれぞれの特徴を導入するというのは、絵画芸術の妙味というものだし、「逆読み」も絵画の見方としての幅を持たせる。

 例えば印象派の≪大気遠近法≫や太陽光線のスペクトルをモティーフに反映させるというのは、「リアリズムの極致」と言うことも出来るし、その大気遠近法の考え方はフランドル風景画以来の、「近景を茶色、中景を緑、遠景を青」と言う≪色彩遠近法≫の延長線にあるもといっても良い。

 逆に古典派の空や雲の表現などは横溢する色彩のニュアンスが見事にフォルムにフィットしてるし、原色の色味は抑えているのに巧みな対比等により、「色鮮やかな聖母マリアの青いマント」などと言う表現もあったりする。

 このようにフォルムと色彩の関係は時に相容れず、時に交じり合う微妙なものであるが、、とりあえずはどのようなスタンスで行くべきかを決めてかかるということが半端にならない最終的な絵画の出来不出来に関わってくると言うのが私の考え方である。

ともかく私の資質から来る絵の性格は色彩を優先させるというものではない。何か表現したいもの、伝えたいメッセージのようなものがあり、それを一定のリアリズムを逸脱する事なく為したい。色彩もその秩序にのったものと言う制約を受ける。いい換えるとニュアンスは無秩序につけられないのである。

 研究所に行ってた頃からそういう絵だった。美大に合格する為には仕方ないのだろうが、みんな同じような絵を描いているように見えた。色数がやたら多い。垂らし込み、薄塗りの塗り重ね、木彫りの人形のようなフォルム、それで立体感や調子、プロポーションが正確なら合格!

 そういう絵はどうしても描く気になれなかた。当時「ハレンチ学園」と言うマンガが流行っていた。
 「君は何か≪ハレンチなもの≫でもねらっているのかい?」と教官に言われた。自分がわかっているだけに言い得て妙と思った。

 その後も色彩重視、明るい絵、ニュアンス派が、素材やマティエールに凝る「絵づくり」派と併せ、いろいろなところでよい成績を収めていたし、市場でも画壇でも市民的嗜好からもそれは今でも多数派と言えよう。
 しかし相変わらず私は「暗く、硬く、アソビのない」絵を、その旨の批判は100も承知で描いていた。
 それは安易な色彩優先にただ反発を感じたからではなく一つの確信のようなもがあったからだ。

 即ち、暗いとか硬いと言われるのは、そう感じさせる「未熟さ」所以である。古典絵画なんてみんな真っ黒だ。コローもユトリロも佐伯も暗い。だがそれを感じさせない。正にそれが絵画芸術の価値、妙味なのだ。≪逆にそこを突けばよい!≫

 勿論これはリスクを伴うものだった。先ず「オール オア ナッシング」、あるレベルまで行かないと全部半端。途中、色彩やタッチでのゴマカシは効かないし、「個性」とか「感性」とかいう得体の知れない感覚論はその時点では通用しないのである。

 半端だと「暗い、硬い、アソビがない」つまらない絵と容赦なくされてしまう。当然売れない、評価されない。当然それなりに対応していかなければならない。フォルムの甘さの克服、質・量感の把握等アカデミックな修練、色彩についても単調さを避けるため「ニュアンス」に代わる「ヴァリエーション」を導入した。

 私が自負するものがあるとすれば、いろんな意味の不利益を顧みず、自分の画法に≪徹した事≫だと思う。徹すれば必ずそれなりの世界が開けると思う。少なくても人生悔いを残さない。多少の利益を得てもたかが知れている。これで行くっきゃない!