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Ψ上クールベ「りんごとザクロ」
 下セザンヌ「静物」

Ψ 転載記事
≪セザンヌの有名な言葉に「自然は円筒形、球形、円錐形に置き換えられる」という言葉があります。
 実はこのような自然観・絵画観は従来はなかったことなのです。
 絵画とはキリスト教世界観や権力者の威厳や、女性の美しさや、人間の喜怒哀楽や、個人の内面を「表現する」ものであり、色や形はその「手段」だったのです。 勿論これは今日においても芸術の主要な目的である事に変りはないのですが…。
 一方、例えば、抽象画を思いうかべてください。よく難解、何を意味しているのか分からない、と言った言葉を聞きます。
 それらが難解に感じるのは、その意味を読み取ろうとするからです。実はそれらは何も意味していないのです。「絵画芸術」という「意味そのもの」だからです。
 そうした視点で再び抽象画を観ると、「手段」から開放された色や形が、「目的」として生き生きと展開させられていることに気づくでしょう。(それなりの訓練は必要ですが)
 これは現代の美術にも受け継がれていることなのです。
 このような、色、形、マチエールなど造形要素そのものを重視する傾向を便宜上「造形的傾向」、それを前述のような表現の手段とする傾向を「表現的傾向」とした場合、前者の源流をセザンヌにみるというのが美術史上の定説であるということです。…セザンヌが「現代絵画の父」と言われる所以です。≫


 クールベは「天使を描いてくれ」といわれた時「天使を見せてくれたら描く」と答えた程のリアリズムの画家である。上記の脈絡で言うと、「表現的傾向」⇔「フォルム派」⇔「古典主義」ということになる。
 一方これと対峙するのは「造形的傾向」⇔「色彩派」⇔「印象派以降」ということになるが、しかし印象派そのものは十分に「表現的」側面もあるし、ゴッホやモディリアニなどその両方の意義を読み取れたりするものもある。セザンヌも過渡的な上掲作品に見られるようにそうした区分はあくまで便宜上に過ぎずない。
 
 しかし、いずれにしろその便宜は美術史上の絵画を分析するのにある程度有効であろう。分かりやすく一般的に言えば「フォルム」と「色彩」の両立は難しい。言い換えるとそれぞれは、例えば「色彩豊かな古典絵画」などのように、それぞれの傾向の中で語られることが特別な意義を持つ。

 この趣旨を上掲の作品で述べると、クールベのは典型的古典派静物画である。果実の持つ生命感や瑞々しさを「表現すること」がそのメッセージの目的である。
 為に、絵画空間として安定した構成、的確なフォルムの把握から、立体感、トーン、質・量感等アカデッミクな造形要素を完璧にクリアしている。
 そのため背景も物理的空間として認識されるし、目には見えないが確かに存在している向こう側のりんごの実在感など含め、静謐で格調ある雰囲気を醸し出しているのである。
 そのメッセージのためには、ニュアンスや対比などで色彩を「豊かに」する必要はないし、マティエール等に妙なアクセントをつける必要もない。むしろ仮にそうしたら件のメッセージ性の桎梏となるだろう。

 一方セザンヌは既に、かの「サント・ヴィクトワール」の画境を予感させるような「フォルムの溶解」が始まっている。ここで描かれたタマネギはクールベのりんごとは意義が違う。タマネギそのものに意味はあまりなく「絵画空間を構成する道具」として扱われ始めている。
 その代わりモティーフと背景に響きあうようなニュアンス、補色的対比など色彩独自の展開が加わる。 構図上のメリハリやアクセントなども配慮される。
 このような自由で純粋に造形的な意思はモティーフ固有の色・形に縛られていたのでは規制を受ける。

 以上のようなことは、一定の造形的修業を経て、そろそろ自らの絵画世界の確立を目指したいというような立場にある場合は、自らの資質や嗜好に応じてとりあえず徹すべき方向性を決めた方がよいだろう。フォルム派でいくか色彩派でいくかである。その後の修正は可能。
 半端だと「形が硬い」か「色彩がない」かのどちらかの「批判」を受ける。これは、そうだった私が言うんだから間違いない!