我々はこの世に生を受けた瞬間から、「世界と歴史」いう時空の軸に否応なしに位置づけられる。しかし、創造に携わらんとするものは、否応なしに位置づけられた自我ではなく、≪主体的に自ら規定する自我≫でなければならない。、≪主体的に自ら規定する自我≫であるということは、社会や歴史、事象や価値体系、森羅万象に主体的に向き合わうということである。

 主体的に向き合うためには≪思想≫がなければならない。あるいは思想がその主体性の中から醸成されなければならない。その思想とは現にあるものをあるものとして是認する方便でもなければ、「社会」に上手く対応していく手練手管でもなければ、コミニュティ-に波風を立てないようにする分別でもない。≪思想とは自らの言動に「積極的意味」を持たせる根拠である。≫

 言わしてもらえばこれが無さ過ぎる!思想らしきものを語っているがおどれはどこにいるんじゃ!と言いたくなる。その意味でベラベラとペダンティックにしゃべってるが何が言いたいのかサッパリわからぬものもある。
 勿論これには相当の努力や資質や才能を要する。何もしないのが楽に決まっている。少なくても自己の無能や怠惰を合理化する方便を探った方が楽だ。

 絵画に「こういうものでなければならない」ということは一つを除いてない。その一つとは「真実」ということである。創造するとは、表現技術はウソであってもよいが、一つの≪真実を創ること≫である。勿論色彩感覚、造形感覚、など純粋に属人的な要素もあるがそれだけで絵画芸術足りうるのは相当な「天才」が必要だ。

 多くの美術史上の天才といえども才能に甘んずることなく、自我の主体性や思想を吹き込む事をもってして初めて自我の絵画芸術の完成とした。
 思想も主体性も無ければ真実も無い。そんなものにまともな絵が描けるはずがない。これは技術以前である。あらゆる美意識もモティベーションも「思想」なのだ。