私は戦後の生まれで戦争の事は知らない。別稿で述べてきたような事はその後の「学習」により得た知識である。その「学習」とはうちの猫でもするようなものだ。
どのようにしたら生きていけるか、自己の存在に攻撃的なものにはどのように防御するか、警戒するか、一度犯した失敗ことはは二度とおかさないにはどうしたらよいかなどである。
私は絵描きであり美術史学徒の末座を汚すものである。絵を通じて自己のアイデンティティやレゾンデートルを支えている。描くことを通じて絵画芸術を、絵画芸術を通じて、歴史を社会を政治を「学習」した。
そこで知ったのは絵画に限らず数多の芸術が愚かな政治主義の犠牲となり翻弄されたという事実だ。
我が国の神話はただ穏健に存在していただけではない。国策としての顔を持って≪人間の存在と尊厳≫、を暴力的に蹂躙した過去を持つものなのである。それも日本に留まらずである。
それを批判することは「自由」に干渉することではない。かつて自由を奪ったそうした体系の再来を許さないということである。
芸術が人間の立場にたってそうしたものに警戒感を持つのは芸術の存在の為にも必要でかつ≪義務ですらある≫。なによりも国家自体がその誤りを認め、それによる「国体護持体系」を廃棄したものだ。単なるモティーフ、創造のモティベーションの問題ではないのである。何も高度な理想主義の話ではない。
自ら為すある種の選択・行動についての積極的意味を語るのではなく、あるべきものをそのまま認める方便を語った方が楽だし、特定のコミニュティーにも波風は立たない。要するに「寄らば大樹の影」、保守なのだ。そりゃ遠く離れりゃ怪我もすまい、深入りしなけりゃ腹も立つまい。
絵画そのものについてもそうだ。自己の絵が甘く未熟に思えれば技術的なことを高めようとする。画家として満足な口が利けるレベルにまで持って行きたい。必要なアカデミックな造形努力もする。
それは偉い事でもなんでもない.当たり前の事。プロ・アマ関係ない.それがいやなら止めた方通い。時間の無駄!
ところが、楽しいのが一番、「自由」に描きたいものを描けば良い、とりあえず何でも描けばよい、技術論や方法論は避け、「個性だ感性」だとかいう安易な感覚論に逃げる…
要するに総て何もしなくて良いという話だ。
芸術には「小市民的事勿れ主義」はいらない。
「衆愚」とは犯罪である!
どのようにしたら生きていけるか、自己の存在に攻撃的なものにはどのように防御するか、警戒するか、一度犯した失敗ことはは二度とおかさないにはどうしたらよいかなどである。
私は絵描きであり美術史学徒の末座を汚すものである。絵を通じて自己のアイデンティティやレゾンデートルを支えている。描くことを通じて絵画芸術を、絵画芸術を通じて、歴史を社会を政治を「学習」した。
そこで知ったのは絵画に限らず数多の芸術が愚かな政治主義の犠牲となり翻弄されたという事実だ。
我が国の神話はただ穏健に存在していただけではない。国策としての顔を持って≪人間の存在と尊厳≫、を暴力的に蹂躙した過去を持つものなのである。それも日本に留まらずである。
それを批判することは「自由」に干渉することではない。かつて自由を奪ったそうした体系の再来を許さないということである。
芸術が人間の立場にたってそうしたものに警戒感を持つのは芸術の存在の為にも必要でかつ≪義務ですらある≫。なによりも国家自体がその誤りを認め、それによる「国体護持体系」を廃棄したものだ。単なるモティーフ、創造のモティベーションの問題ではないのである。何も高度な理想主義の話ではない。
自ら為すある種の選択・行動についての積極的意味を語るのではなく、あるべきものをそのまま認める方便を語った方が楽だし、特定のコミニュティーにも波風は立たない。要するに「寄らば大樹の影」、保守なのだ。そりゃ遠く離れりゃ怪我もすまい、深入りしなけりゃ腹も立つまい。
絵画そのものについてもそうだ。自己の絵が甘く未熟に思えれば技術的なことを高めようとする。画家として満足な口が利けるレベルにまで持って行きたい。必要なアカデミックな造形努力もする。
それは偉い事でもなんでもない.当たり前の事。プロ・アマ関係ない.それがいやなら止めた方通い。時間の無駄!
ところが、楽しいのが一番、「自由」に描きたいものを描けば良い、とりあえず何でも描けばよい、技術論や方法論は避け、「個性だ感性」だとかいう安易な感覚論に逃げる…
要するに総て何もしなくて良いという話だ。
芸術には「小市民的事勿れ主義」はいらない。
「衆愚」とは犯罪である!