Ψ一部転写記事

 一般に写真を絵にするのが良くないのは「写真に描かされる」からである。言い換えると、資料としての意義、取材の効率、その他職業的要請等、写真を≪自我の造形性の下にコントロールできる≫一部画家について及びハイパリアリズムなどその表現性おいて別途意義あるものなどについては、写真の援用は認知されるだろう。

 以下はそうしたものとは違う、造形性を真摯に受け止め、アカデミックな修業を含め前向きにそれと対処するという立場に係る記述である。

絵画的に捉えるとは造形視力で捉えるということ。造形視力で捉えられるものとは、フォルム、トーン、質・量感、立体感など造形的要素、勿論モティーフの美や生命力など表現的要素など、描き手の生きた眼が認識するもの、写真では伝えらないものである。。

 そもそも絵画芸術の意義と目的とは作家側にとっては、美意識、造形感覚、情緒性、思想性等の、絵画という形を借りての表現であり、受け手にとってのそれはその共有、共感である。その価値とは時空を超越した普遍的なものであるはず。それゆえ芸術足る。 そのための最大の要件は作品が≪真実≫であるということ。表現が「ウソ」であっても伝えるメッセージが作家側の総ての真実を語っているのなら良いのである。

 その真実とは、≪自分の目で見、感じ、解釈し、あるいはイメージし、構成し、自分の色彩やフォルムで絵画空間を創造すること≫に他ならない。
 そのモティベーションやプロセスそのものの造形的密度が生きた絵を創る。一生懸命モティーフを追い、自己の感覚や技術を全力で傾注している絵とは、例え「ヘタ」でもその姿勢そのものが必ず何某かの感動を与えるものである。芸術性とか個性などというものは放ってても後から付いて来る。≪描写主義やリアリズムとはそういう関わり方の一形式に過ぎない。≫

 「私も研究所に通いはじめの頃よく「真っ黒になっても良い、泥んこになっても良い、良く見ろ、奇麗事で終わらすな!」と言われた。
 林武や宮本三郎など画家のモティーフを見る目は鋭い。よくみてるからである。

 写真を見ながら描くということは2次元の平面図像を絵と言う別の2次元の平面図像に置き換えるだけの作業ということ、実物を見ながら描くということは3次元空間にあるものを2次元空間に表現するといことで、その造形的意義は全く違う。

 例えば風景画について言えば、造形的モティベーションを誘う対象に先ず目の動きが有り、心の動きがあり、それが手の動きに連動して活きた絵となる。写真は一定の角度から見た「切り取られた結論」でしかない。パースペクティブなどもレンズと眼では違う。
 静物や人物も「切り取られた結論」を描くのではなく生身のモティーフの側面も背面も空間の雰囲気も総て描くもの。

 かつてホッベマの「並木道」のような素晴らしい、描きたくなるようなパースペクティブに出会ったことがある。イメージでは既にデッサンをし始めたが、時間がなかったので写真を撮った。画室で改めて見てみると無味乾燥な急速に退く黒っぽいパースペクティブが写っているだけ。一度は絵にしたがモテベーションは持続せず、すぐに潰してしまった。

 いい景色と思って写真を撮って、絵にしようと再び見てみるとサービスサイズの四角にニュートラルな風景が他愛なく収まっているだけという経験があるのは私だけではないはず。
 これは写真が示すものが、ナマの眼で見て得た感動をカバーしきっていない、つまり先に述べた「造形視力」とが「造形感覚」に対応しきれないということに他ならない。

 写真は生きた眼が認識できるものが認識できない。「感動のプロセス」がない。それを別の二次元空間に移すだけのこと。前回述べた「個が関わる」意義が介在する余地がない。

 うまく「写した」ところで、風景画はスナップ写真のように、花は植物図鑑のイラストのようになる。その限りではほとんど価値はない!それでも「油彩」と言う素材の持ち味に助けられそれらしいものは出来るが、出る所に出、見る人が見ればほとんど「バレ」る。

 「喜一のぬりえ」は芸術だが…。