類は友を呼ぶというのか、自由業なら自由業という一つの世界に属していると同じような人間と接する機会が増えるものである。親族にも文筆業がいたし、親戚筋にもバレエ団関係者がいる.同級生もエンターテナ-がいるし以前住んでいたマンションの隣室には俳優がいた。
勿論絵描き仲間もいた。
彼らは自分達が置かれた状況をそういうものとして受け止めているしこの社会にしょっちゅう不平不満をぶつけているわけでもない。ただ、一度しかない人生を好きなことをやりたいという価値観を持ってそれを素直に実行しているだけである。それに伴う犠牲も覚悟している。何よりもその道で必ずしも対価を伴うものでない切磋琢磨をしているのである。
にもかかわらず人間の価値を稼得能力や社会的地位で決めたがるる、この頑迷な「優等生社会」からは、貧乏人の道楽者の無能力者のハタの迷惑ウンヌンカンヌンと言われる。親から「立ち直って!」てといわれたことがある某詩人が「文学とか詩作って立ち直るべきものらしい」と笑って言っていた。
勿論私自身もそれこそ何万回も言われた。
よく、そういう「確信犯的俗物」に一々反論する気にもなれない(というより言って分かるような「知性」があれば最初っからそういうことは言わないだろうと思う)、言われたら「これをごらんください!」と言う「反論マニュアル」のようなものがあればよいなと話し合ったことがある。
以下の拙文はそういう意味で多少その意義があるのではないかと思う。(Ψ転載記事)
自分の事を棚上げして大所高所の話をさせていただております。
中世のヨーロッパにおいて、多くの権力者は芸術庇護に努めました.これは力や富のステータスシンボルという意味もありましたが、文化芸術を支配すると言う事はそれを通じて大衆の心を支配するという意味もあったと思います.事実それ以前の時代でも芸術、宗教、哲学に携わるものは非常に高い社会的地位が与えれていました.人の心を支配していたからです.
一例を挙げればフィレンチェのメディチ家の下でルネッサンスが開花したのはご承知の通り。音楽ではウィーンのハプスブルグ家がそうです。本邦においても狩野派は幕府、土佐派は朝廷の庇護の下それぞれの開花があったのはご承知の通り。
つまり、パトロンとかスポンサーというやつです。しかし私はそれだけではないと思います.衣食足りて礼節を知るではないですが富と権力を持った後、彼らの思想には文化芸術に報いるのは人間社会の義務であると言う認識が生まれたと思います。そしてそれはそのとおりです。≪人間社会を人間社会たらしめているのは文化芸術があるからです。≫それと通い合う、ハードな面をもった人間が存在するからからです。
そういう意味で、それは存在する事そのものに意義があり、≪それに報いるのは人間社会の義務≫なのです。そうでなければ、巣づくり、子育て、えさ運び、五感の欲望と享楽、排泄行為…動物や虫の世界と変わらりません。確かに質は違うがそれは知能と言う大脳生理学、正に生物の問題。
これが天の摂理です。この摂理を心得ない富と権力の蓄積だけに腐心するエスタブリッシュはその義務を履行しないという意味でアンフェアなのです。
また文化芸術の創造は人間の精神世界に関わる労働です。それ以外は物質世界に関わる労働です。つまり人間社会に分担された労働であることに変わりはない。ところがモノカネ国家ほどこの物質世界に関わる労働にしか対価を与えない。これもアンフェアです。
パリで芸術家がデモをするというのは本当です。それは裏返せば芸術家に前述したような権利意識がるからです。しかし、文化芸術の保護は日本の比ではありません。街のとおりには芸術家や文化人の名前がつけられ、銅像や彫刻には石を投げれば当ります。アトリエつきアパルトマンもあり、大道芸人は地下鉄の車内でさえ店開きです。
日本は不況を名目に企業は主宰するゴルフコンペには多額の資金を提供するくせにドンドン文化事業や美術館から撤退してます。
この国で一番エライのは金を支配する人です。松方や石橋に芸術を愛する心があってよかったと思います。だから「国立」もブリジストンも残った。
飛騨民俗村や明治村のような生きた生活と切り離した博物館的保護行政を文化保護と勘違いしている。
真の文化国家とは芸芸術院会員の年金制とか文化勲章の整備、何とか賞かんとか賞ではなくピラミッドの裾野をどれだけ充実させられるか、その受け皿としてどれだけのものが整備されてるか、そういうところで計られるのではないかと思います。
この上芸術家に営業マンになれ、地球資源や政治経済のこと考えろと言うのは酷な話で、そういう政治家や官僚や経済人がいたら「おどれりゃ、今までなにしてさらしてきたんじゃボケ!」と言いたいと思います。
勿論絵描き仲間もいた。
彼らは自分達が置かれた状況をそういうものとして受け止めているしこの社会にしょっちゅう不平不満をぶつけているわけでもない。ただ、一度しかない人生を好きなことをやりたいという価値観を持ってそれを素直に実行しているだけである。それに伴う犠牲も覚悟している。何よりもその道で必ずしも対価を伴うものでない切磋琢磨をしているのである。
にもかかわらず人間の価値を稼得能力や社会的地位で決めたがるる、この頑迷な「優等生社会」からは、貧乏人の道楽者の無能力者のハタの迷惑ウンヌンカンヌンと言われる。親から「立ち直って!」てといわれたことがある某詩人が「文学とか詩作って立ち直るべきものらしい」と笑って言っていた。
勿論私自身もそれこそ何万回も言われた。
よく、そういう「確信犯的俗物」に一々反論する気にもなれない(というより言って分かるような「知性」があれば最初っからそういうことは言わないだろうと思う)、言われたら「これをごらんください!」と言う「反論マニュアル」のようなものがあればよいなと話し合ったことがある。
以下の拙文はそういう意味で多少その意義があるのではないかと思う。(Ψ転載記事)
自分の事を棚上げして大所高所の話をさせていただております。
中世のヨーロッパにおいて、多くの権力者は芸術庇護に努めました.これは力や富のステータスシンボルという意味もありましたが、文化芸術を支配すると言う事はそれを通じて大衆の心を支配するという意味もあったと思います.事実それ以前の時代でも芸術、宗教、哲学に携わるものは非常に高い社会的地位が与えれていました.人の心を支配していたからです.
一例を挙げればフィレンチェのメディチ家の下でルネッサンスが開花したのはご承知の通り。音楽ではウィーンのハプスブルグ家がそうです。本邦においても狩野派は幕府、土佐派は朝廷の庇護の下それぞれの開花があったのはご承知の通り。
つまり、パトロンとかスポンサーというやつです。しかし私はそれだけではないと思います.衣食足りて礼節を知るではないですが富と権力を持った後、彼らの思想には文化芸術に報いるのは人間社会の義務であると言う認識が生まれたと思います。そしてそれはそのとおりです。≪人間社会を人間社会たらしめているのは文化芸術があるからです。≫それと通い合う、ハードな面をもった人間が存在するからからです。
そういう意味で、それは存在する事そのものに意義があり、≪それに報いるのは人間社会の義務≫なのです。そうでなければ、巣づくり、子育て、えさ運び、五感の欲望と享楽、排泄行為…動物や虫の世界と変わらりません。確かに質は違うがそれは知能と言う大脳生理学、正に生物の問題。
これが天の摂理です。この摂理を心得ない富と権力の蓄積だけに腐心するエスタブリッシュはその義務を履行しないという意味でアンフェアなのです。
また文化芸術の創造は人間の精神世界に関わる労働です。それ以外は物質世界に関わる労働です。つまり人間社会に分担された労働であることに変わりはない。ところがモノカネ国家ほどこの物質世界に関わる労働にしか対価を与えない。これもアンフェアです。
パリで芸術家がデモをするというのは本当です。それは裏返せば芸術家に前述したような権利意識がるからです。しかし、文化芸術の保護は日本の比ではありません。街のとおりには芸術家や文化人の名前がつけられ、銅像や彫刻には石を投げれば当ります。アトリエつきアパルトマンもあり、大道芸人は地下鉄の車内でさえ店開きです。
日本は不況を名目に企業は主宰するゴルフコンペには多額の資金を提供するくせにドンドン文化事業や美術館から撤退してます。
この国で一番エライのは金を支配する人です。松方や石橋に芸術を愛する心があってよかったと思います。だから「国立」もブリジストンも残った。
飛騨民俗村や明治村のような生きた生活と切り離した博物館的保護行政を文化保護と勘違いしている。
真の文化国家とは芸芸術院会員の年金制とか文化勲章の整備、何とか賞かんとか賞ではなくピラミッドの裾野をどれだけ充実させられるか、その受け皿としてどれだけのものが整備されてるか、そういうところで計られるのではないかと思います。
この上芸術家に営業マンになれ、地球資源や政治経済のこと考えろと言うのは酷な話で、そういう政治家や官僚や経済人がいたら「おどれりゃ、今までなにしてさらしてきたんじゃボケ!」と言いたいと思います。