Ψ転載記事

 (私の言う≪空を大きく視線(水平線)を低く据える風景画≫というのは「フランドル風景画」ではなくヤーコブ・ファン・ライスダールなどに代表される「オランダ風景画」ではないかという問いかけにたいして)
 結論から言うと「オランダ風景画」と言えばそれを思いおこしますし、多くの名作が生まれたのも事実なので一般的にはそれは無理からぬことと思います。しかし私は自ら風景画を描く者としてはこだわりたいものがあります。先ず以下の文を読んでください。

http://www.dutchbaroque.jp/landscap.htm

 上記にあるごとく当時のオランダ風景画とは、空想・写実両面ともフランドル絵画からあるいはフランドル地方から移住してきた画家達に負うところが多いのです。
 それと≪空を大きく視線を低く据える風景画≫というのは別途≪世界風景≫などとも呼ばれ、それは鳥瞰図的、パノラマ敵に風景を捉えるという「造形的視点」にこそ注目すべきで、山がなく平坦で視界が左右に広がるという「まんま」であるというオランダ風景画の地理的・現実的側面は別ものと考えたいのです。
 また、広義の「オランダ風景画」とその≪空を大きく視線を低く据える風景画≫という構図は必ずしも当時のものに限ったことではなくヨンキントなど後世の画家にも受け継がれていますし(ゴッホもそういえばそうでそうですね)、モネ、ブーダン、シスレー、ピサロなど非オランダ系印象派の画家達によって風景画の一類型を為しています。

http://www.nichizei-net.com/art/meiga56.html
 
 その他当時のオランダの地理的、政治的、経済的事情を考えれば安易に「オランダ」とは呼びたくない側面もあります。
 しかしながら「フランドル」と限定してしまうのも同じような意味で問題が無しとしません。
 従って最善は「17世紀フランドル・オランダ風景画」ということでしょうか。



 先に風景画の要素として臨場感、造形性(色、形、構図等)、精神性(の投影)を挙げましたが、もう一つ「イマジネーション」と言う大事な要素があります。風景画に限らず良い絵とは何某かのイマジネーション(想像力)をそそるものではないか、と思っています。
 カールブッセの

 山のあなたの空遠く
 「幸」住むと人のいう
 噫、われひとと尋めゆきて
 涙さしぐみかえりきぬ
 山のあなたになお遠く
 「幸」住むと人のいう

と言うのは三遊亭円歌の力を借りなくても誰でも知っている詩です。
 これに因んで、例えばイギリスとかオランダと言うのは高い山がない、地平のずーっと先まで見渡せる、したがってそのような見えないものを憧憬するという「文化的価値観」は生まれない、という芸術の「環境論」的分析があります。因みにこの環境論は四面海に囲まれ、四季折々の変化に富み、ウエットな、反面チマチマして「島国根性的」などという本邦の文化芸術に照らして納得させられるところがありますが。
 一方、5026の拙文がちなんだ、フランドル風景画は「世界風景」と呼ばれる「鳥瞰図」ですが、その「光景」は現実には画家が目にすることは少ない想像画だあったのですが、風景画にイマジネーションを導入したというより、イマジネーションで風景画を創っていると言う意味での意義を感じています。
 そしてそれはまさに、「山のあなたの空遠く…」といった「イマジネーション乃至はノスタルジー」によるものではないか、だとするとそれは、在来の環境論を克服したもの、あるいはその反動としてイマジネーションの受け皿として風景画があったのではないか、そう言う特別な意義を感じたりします。そう言えばもう一方の風景画の故郷イギリスも高い山はありませんし、その後の「イタリアネート・ランドスケープ」(最近覚えた!)も、その本質は、単なる様式の傾倒ではなく、フランドルやオランダの画家達が、イタリアの風景画に「山のあなたの空遠く…」的なイマジネーションを感じたものと解釈できそうです。
 いずれにしろ件の画家(山の向こう側がどうなっているかわざわざ見に行った某画家)は、イマジネーションという風景画家として非常に重要な資質があったらばこそ、見えている限りでは収まりがつかなったのでしょう。
 その種のイマジネーションとはとても既成のメディアを援用して得られるものではありません。