本当はこう言う話あまり好きではないのだが余りに思慮を伴なわない不用意な使われ方がされていると思われる件の言葉についてこのブログの立場上一度表明しておく必要を感じる。

 よく「プロ」とか「アマ」とかいう言葉を聞く。一般的には「その道で食ってる」ということ(食えてるはともかく)、一定の市場性を有すると言う事らしい。
 それなら生涯に「赤い葡萄畑」という現在プーシキン美術館の収蔵されている絵一点しか売れなかったゴッホは「プロ」ではないのか?。弟テオのビーグル商会を通じて市場性とは縁がなかったわけではないにも関わらずである。モディリアニは?ゴーギャンは?…etc.
 おそらくまともな神経を持っている人間なら彼らに「プロ・アマ」の概念を導入すること自体ナンセンスと思うだろう。絵画芸術の価値とはそのような矮小な概念とは無縁のところで語られるものだからである。

 一方アマについて、例えば、モティーフたるものの見方にプロ的、アマ的があるだろうか?そもそも芸術に通い合う精神にプロ的・アマ的あるだろうか?造形の本道にアマはここまででよいということがあるだろうか?
 技量や資質の問題は仕方がない。結果の違いも当然起こる。時間的制約や物理的事情も当然ある。しかし、一たびキャンバスに向かえば目指すべきところは同じ。
 アンリ・ルソーやグランマ・モーゼスのような絵はそれを教えているのである。
 「趣味道」として活路を見出すのは一向に構わない。だが日々造形努力をしている「アマチュア」に失礼なきよう対処してもらいたい。

 つまり本来絵画芸術の意義にプロもアマもないのである。
 とりわけそのような概念のメルクマールを市場性という一点にのみこだわり、そのような視点で絵画を見ることは絵画芸術への冒涜と言っても過言でない。
 そういう人間に限って外部から与えられる「価値情報」を盲信する。因みに文学の世界では「何とか賞」取らなきゃ話がはじまらないようだが、それは文学の本質的価値を見落とすということにはならないのだろうか?これも安易と言えば余りに安易なメルクマールである。

 さすればその市場性とはどんなものか?
 本邦においては画廊の最大手と言われるN画廊も企業規模から言えば小企業だ。絵画自体もマスプロダクションされるものではないし、市場もマイナーだ。したがって会社組織としてやっていくためには「商品」を高く売らなければならない。

 そのためには値段をつり上げる「付加価値」が必要だ。これが「年鑑評価型市場体系」である。どんな門閥・学閥で、どんな画壇的地位にあり、どんな実績があるか、それをシビアに評価して「発表価格(評価価格)」を決める。本邦では特に買う方もそういう付加価値求める傾向にあるし、それゆえ売るほうもできるだけキンピカの「看板や勲章」を備えている作家を扱いたい。
 しかしなまじ付加価値が上がり高値をつけて売れなくなるより、評価価格はそこそこで良いから売れたれたほうがよほど良いという画家側の実情もあるだろう。
 いずれにしろ市場性が必ずしも作品の内容そのものの価値で形成されているものではないということ厳然とした事実である。

 しかし「生活のため」画家もそういうアドヴァンテージを求めることになる。そのため絵画芸術の本質とは異質の「努力」や「工作」をしなければならない場合もある。
 繰り返すが市場性と芸術性は必ずしも一致するものではない。一般に「明るく、楽しく、ハッピ-なもの」が好まれる。フリーッドリッヒのように墓場や廃墟のような絵はよほどのモノズキでなければ買わない。
 つまり、画家の作品傾向や資質、ポリシ-、さらに純粋性や良心に至るまで市場性との乖離を生ずる余地はいくらでもあるのである。

 仮に一度そのような市場性に乗ったとして、ヨドバシカメラではないが「2割、3割はあたりまえ!」というのが「画料」というやつだ。
 例えば「発表価格号3万」なら10号では30万。画料として画家の手元に入るのは6~9万ぐらいが普通だろう。それでも個展でもデパートなどでコンスタントに売れれば生活の見通しは立つのだが、年に何点かポツンポツンと雨だれというか焼け石に水程度に売れ、やっと「プロ活動」をしていると言う体面だけは維持していると言うのが現状だ。
 とても生活できるシロモノではない。

 つまり前述のメルクマールの根拠たる「市場性」とはかくも「非芸術的」なものであり、「生活」と絡めるには誠に脆弱なものなのである。
 さすれば当然そのようなものに「プロ画家」としての「アイデンティティ」とか「レゾンデートル」のようなものを置き得ない画家も出てくる。

 そうは言っても便宜上「プロ」と言う言葉を使わなければならないこともある。画家自身もそうだ。そうでなければ「アマ」に甘んじなければならない。
 そこで、私は絵画における「プロ」を以下のように定義している。
 〇プロ画家としての自覚を持つ
 〇プロ画家として生活する
 〇プロ画家としての仕事をする
  そんなんなら自分でもいつでも「プロ画家宣言」ができる!という人にはどうぞやって御覧なさいと言う他はない。どれ一つとっても大変なことである!

 絵を描き続けるには人並みの「幸福」を求めてはならない。血族姻族、親類縁者、知人友人、神社仏閣。魑魅魍魎、全部敵に回しても描き続ける覚悟が必要である。生涯に渡る創造のための切磋琢磨が必要である。並でない技術的練磨が必要である。
 私の定義は東西の先達がそれを満たしていたことによリその絵画世界を築き得たと思うことによる。
 とりわけ最後の項目については日頃の我が身の目途、戒でもある。