Ψ「どうしたらうまくかえるの」より転載
ある傾向の公募団体は「描写的」であることを否定してます。一方ある写実的な作家は「そんな写実的な絵を描いて楽しいんですか?」と聞かれた時「楽しいんです!」と言下に答え返したそうです。
私も言います「楽しいんです!」
「物の形をそのまま写す」という限りでは勿論芸術としての意義はないかもしれません。しかし画家がモティーフとして選択したのはそれが美しいものであるから、あるいはそれに美を感じたから、あるいは「美にしてやる」ことに自信があるから、したがってそれは写実であろうとなかろうと絵画という形に生まれ変わると言う意味で「美の創造」には違いありません。さらにそれらには画家の心のフィルターを通したもの、なにかのメッセージ性がこめられたものとして、現象的なのみの写実性を超えます。つまり、写実か創造かではなく、「写実という創造」なのです。
勿論そこには技術論・方法論ということもあります。絵画において、ややもすると感性だとかユニークさだとかキャラクター(個性)だとかいう感覚的なことがそれらの隠れ蓑となりがちですし、近代絵画の流れもそういう「アカデミズム」を否定する過程の流れのように一見みえます。
しかし、例えばあるバイオリニストの事を評して「彼女の才能は四角い座敷を四角く掃く(音符の一つ一つの意義を丁寧にカバーするという意味らしい)ところにある、普通の人は四角い座敷を丸くしか掃けない」という趣旨の話を聞いたことがあります。どんなラジカルなモダンジャズでも楽譜と言う方法論、演奏や楽器の技術論はあります。フィーリングやアドリブだけでは成立ちません。それと同じだと思います。近代絵画の流れも古典絵画あったればこそのものです。
あるべきものをそのように描くことがどれだけ大変か、上手く行った時の喜びはどれだけ大きいか、写実主義は堂々と自信を持って良い画法と考えます。
次にこの前後で話題となっていることの感想です。先ず絵画芸術などとイタコの口寄せを混同して論じるのは少々無理なような気がします。
イタコの話を聞いていると「生存中はいろいろお世話になりました…今は悔いも恨みもなく楽しくやってます…みんな元気で仲良くやってください…」などとマリリン・モンローでも三島由紀夫でも、みんなズーズー弁で、情報量というより当らず触らずのことを言ってるように感じます。(均質化された情報)
この無難さとそれらしいパフォーマンスが死者⇒イタコ⇒この世の者との円滑なコミニュケーションを支えているのは事実でしょうが、絵画芸術がコミニュケーション維持のためこのような無難である必要は無いと思います。
結論を言うとイマジネーションやメッセージの表象化は純粋に画家個人の次元で処理されて良いもの、その結果それらを共有できコミニュケーションが得られば幸いなことであるが、絵画とはその結果まで責任が問われるものではない、またイマジネーション等の共有か否かは情報の寡多に直接関係なく得られるものは得られ、得られないものは得られない、ということでしょうか。
ある傾向の公募団体は「描写的」であることを否定してます。一方ある写実的な作家は「そんな写実的な絵を描いて楽しいんですか?」と聞かれた時「楽しいんです!」と言下に答え返したそうです。
私も言います「楽しいんです!」
「物の形をそのまま写す」という限りでは勿論芸術としての意義はないかもしれません。しかし画家がモティーフとして選択したのはそれが美しいものであるから、あるいはそれに美を感じたから、あるいは「美にしてやる」ことに自信があるから、したがってそれは写実であろうとなかろうと絵画という形に生まれ変わると言う意味で「美の創造」には違いありません。さらにそれらには画家の心のフィルターを通したもの、なにかのメッセージ性がこめられたものとして、現象的なのみの写実性を超えます。つまり、写実か創造かではなく、「写実という創造」なのです。
勿論そこには技術論・方法論ということもあります。絵画において、ややもすると感性だとかユニークさだとかキャラクター(個性)だとかいう感覚的なことがそれらの隠れ蓑となりがちですし、近代絵画の流れもそういう「アカデミズム」を否定する過程の流れのように一見みえます。
しかし、例えばあるバイオリニストの事を評して「彼女の才能は四角い座敷を四角く掃く(音符の一つ一つの意義を丁寧にカバーするという意味らしい)ところにある、普通の人は四角い座敷を丸くしか掃けない」という趣旨の話を聞いたことがあります。どんなラジカルなモダンジャズでも楽譜と言う方法論、演奏や楽器の技術論はあります。フィーリングやアドリブだけでは成立ちません。それと同じだと思います。近代絵画の流れも古典絵画あったればこそのものです。
あるべきものをそのように描くことがどれだけ大変か、上手く行った時の喜びはどれだけ大きいか、写実主義は堂々と自信を持って良い画法と考えます。
次にこの前後で話題となっていることの感想です。先ず絵画芸術などとイタコの口寄せを混同して論じるのは少々無理なような気がします。
イタコの話を聞いていると「生存中はいろいろお世話になりました…今は悔いも恨みもなく楽しくやってます…みんな元気で仲良くやってください…」などとマリリン・モンローでも三島由紀夫でも、みんなズーズー弁で、情報量というより当らず触らずのことを言ってるように感じます。(均質化された情報)
この無難さとそれらしいパフォーマンスが死者⇒イタコ⇒この世の者との円滑なコミニュケーションを支えているのは事実でしょうが、絵画芸術がコミニュケーション維持のためこのような無難である必要は無いと思います。
結論を言うとイマジネーションやメッセージの表象化は純粋に画家個人の次元で処理されて良いもの、その結果それらを共有できコミニュケーションが得られば幸いなことであるが、絵画とはその結果まで責任が問われるものではない、またイマジネーション等の共有か否かは情報の寡多に直接関係なく得られるものは得られ、得られないものは得られない、ということでしょうか。