ブログをはじめて10日あまりになりますがこれまで述べ200人近くの訪問者がありました。あらためて拙ブログへの訪問にお礼申し上げます。
 
 さてここで随時、私がYAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」などで過去投稿した、主として絵画に関する存念をまとめてみたいと思います。
 言うまでもなくこれらは私個人の絵画芸術、造形に係る考え方ですので内容の普遍性は確信するものでありますが、採否は勿論個々人に委ねられるものであります。
 なお文は大幅な改定、新規記述、一部省略、等必要な編集が為されたものであること、投稿した順は不同であることをお断りします。

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 そこで先に私はデッサンの意義について
1)造形感覚や表現力を養うための修練
2)タブロー等制作のエスキース
3)デッサンそのものの作品としての意義
4)手や五感のウォーミングアップ
5)その他
 と言う風にまとめました。
 美大入試とか子供の絵画教育としてのデッサンは1)でかつなおその一部にしか過ぎません。言い換えるとそれらをもって絵画芸術全体におけるデッサンの意義を論ずるのは甚だしいことの矮小化というものです。
 つまり絵を、固有の色や形のとらわれず自由に、楽しく、奔放に描くというのは絵の一つの生き方でではありますが、その際とりあえず条件とされないのは前記1)に属する一部の「アカデミックな意味のデッサン」にすぎません。
 例えばをそのような奔放な絵であっても美しく、安定した画面であるためには造形的バランスやヴァルールへの配慮が必要だし、造形効果としての「デフォルメ」や「アソビ」、「洒落た、洗練されたセンス」なども先ずしっかりした構成やフォルムの認識・把握、表現力あってこそのものであります。
 またこれも既に書きましたが、絵画芸術としてひとつのメッセージ性を伝えようとするにはその桎梏となる造形的不自然さ(分かり易い一例では「デッサンの狂い」など)を取り除いておかなければなりません。
 これらのの事に関わるものはは何かと言えば、総て広義の「デッサン」性なのであります。「性」といったのは必ずしもモノクロの鉛筆やコンテなどによる「デッサン」そのものと言う意味ではありません。
 そうしてこのようなデッサン性に係る「修業」は凡そ絵画芸術(現代美術を含め)であらんとする場合は「この程度やればよい」というものではありません。
 勿論それらを修業によらず「才能」というものでカバ-することはありますが。私は才能というのはむしろそこから先の展開に関わる事においてこそ意義あることで、事実才能ある先達こそそれに胡座をかかずデッサンをふくめた造形的修業を一生の問題として捉えていたのです。

 それでは「広義のデッサン」、もしくは「デッサン性」とは何かということですが私はあまり深い思慮を伴うものでないとお断りした上≪事象の構造的な部分、あるいは本質を引き出すプリミティヴな造形行為、及び作品と言う完成形式に至るまでの試行錯誤または基礎作り≫と定義します。 そこで私は最近重要に考えてる事は上記区分で言う4)にあたる「ウォーミングアップ」としてのデッサンです。
 「プロ」という言葉は頑迷に市場性に支配されている好きな言葉ではありませんが、私の定義で言う「プロ中のプロ」と思える先達には憧憬するものがあります。
 それは「スケール、切れ、キャパシティー、ある種の凄み」といったものです。つまりギリギリ、イッパイイッパイではないのです。
 そういうものは何処から持たされるかといえば思考を含めた日頃の造形的ウォーミングアップだと思います。
 これがないと出来そこないの救援投手のようにボカスカ打たれたり「肩を痛めたり」します。