今回のレポは、新加納の戦い!!
さて、皆さん、このマニアックな戦いの名前を聞いた事あるでしょうか( ^ω^ )
この戦いは、尾張の「織田信長」と、美濃の「斎藤龍興」との間で起こった戦いです。
信長は、1560年の「桶狭間の戦い」で、「駿河」の「今川義元」を打ち破ると、
自分の国、「尾張」が安定していきます。
そうなると、やはり、次の目標は、隣りの国、「美濃」を奪う事。
まず、手始めに信長は、桶狭間と同年。1560年の6月3日に、美濃に侵入。
しかし、斎藤方の武将である、
丸茂、市橋、長井らに敗北して、尾張に引き返しました(^^;;
さらに、8月には、美濃に再度侵入し、刈田作戦!!
刈田作戦とは、その名の通り、田んぼの稲を刈ってしまう作戦の事(笑)。←(コレほんとの話w)
信長は、「これで、お前たちの食べ物は無くなるぞ!ひっひっひ。」と、
笑みを浮かべながら、稲を刈ったかは分かりませんがw
結果、作戦失敗!!
前回同様、丸茂と、長井に見つかり、
これら1000人もの軍勢に襲われ、またも信長、、、、
敗北。
また、尾張に引き返します(泣
1561年、斎藤氏の当主、斎藤義龍(さいとうよしたつ)さんが、病死。
義龍さん亡き後、息子の斎藤龍興(さいとうたつおき)さんが当主となります。
信長チャンス!!
義龍さんが死んで2日後には、出陣。
翌日、1561年5月14日。「森部の戦い」が勃発します。
この時は、前田利家の活躍もあり、織田信長が勝利!!
同年の5月23日には、「十四条、軽海の戦い」が起きます。
この戦いは、夜になってしまった為、敵、味方の区別がつかなくなり、
双方、撤退。
これまで、西濃(美濃の西側)ばかりを攻めてきた信長。
今度は、中濃(美濃の真ん中あたり)を攻める作戦にでます。
同年、6月。稲葉山城下(現:岐阜城の城下)の民家などを放火します。
しかし、この放火作戦で、一門衆、織田越中守(おだえっちゅうのかみ)が、討ち死に
。
しばらく、信長は戦をやめて、
そして、1563年春!ついに、
「新加納の戦い」が勃発します!!!
↑ここまでの説明が長かった(苦笑w
信長は、木曽川を渡り、加賀見野(かがみの)つまり、現在の各務原(かがみはら)に進軍します。
各務原には、西側に各務原台地があり、ここが、「新加納」と呼ばれています。
この上の地図の一番左下に、「少林寺」、「御陣屋」、「坪内家屋敷」がありますね?
ここは、各務原台地の一番西端にあって、ここら辺りに、信長は陣を張ったと考えられます。
戦国時代には、坪内家屋敷や、陣屋はありませんでした。
何故なら、まだ、坪内氏は、信長の家臣であり、松倉城を居城としていたからです(*^^*)
ちなみに、松倉城は、現在の岐阜県川島町にあります。
新加納からも一番近い、信長方の城。
ですから、今回の「新加納の戦い」も、この松倉城から出陣した可能性が高い!!
さて、話が反れましたが、
ここ新加納で信長が陣を構え、周囲を放火すると、
斎藤龍興の軍勢が、その挑発に乗って、やってきます。
信長は、先陣に、池田恒興、坂井政尚。
第二陣に、森可成、柴田勝家。
第三陣に、丹羽長秀。
本陣、織田信長として、
まず、先陣を前に出します。
しかし、池田、坂井とも敗れ、
第二陣、柴田、森が必死に防戦。
敗色が、濃くなり撤退。
戦場となった、新加納の少林寺。
ここから、西を眺めると台地なので見晴らしがいいですね( ^ω^ )
ここからは、創り話かもしれませんが、
この戦いで負けていた織田軍。
木下藤吉郎(のちの秀吉)が、稲葉山に登り、松明をいっぱい灯し、
敵に城が攻められたと勘違いした、斎藤軍は、稲葉山城に撤退していった。
と、いう伝説も残っています。
これが、本当なら、秀吉、MVPとも呼べる働きですね( ^ω^ )
今日のレポは、大変長くなってしまいましたm(__)m
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました*\(^o^)/*