雨ですね。

最近、亡くなった母のことをよく思い出します。

 

亡くなってすぐの頃は冷静だったのですが、

8年経った今になって、寂しいと思うようになりました。

 

雨の日に、小さかった息子と娘を連れて実家に遊びに行くと、

母は玄関で乾いたタオルを用意して待っていてくれたものです。

 

「こんなに濡れて」と言いながら、

孫の髪まで丁寧に拭いてくれました。

 

部屋に入ると、今度は温かいおしぼり。

レンジでチンして出してくれるのですが、

濡れて冷えた体に、熱いおしぼりがとても気持ちよく、

思わずおじさんのように、顔や首まで拭いたものです。

 

おおらかな反面、神経質なところもあり、

心配性だった母。

 

年齢を重ねるにつれ、

自分が母に似てくるから、

最近よく思い出すのかもしれません。

 

そんな母は、

横浜のありふれた家庭に生まれました。

 

裕福とは言わないまでも、

まだ平和だった昭和の初めの横浜で

母は家族と共に穏やかに暮らしていたようです。

 

母の父(私の祖父)の本家は作り醤油屋で、

それなりに豊かだったようです。

職人が出入りし、巨大な桶で醤油を仕込む。

造り酒屋のような風景だったようです。

 

次男だか三男だかの父(私の祖父)は、

その家を出て独立。

執事のような仕事をしていたそうです。


 

亡くなった母の母(私の祖母)は、

写真で見る限り美しい人で、

フェリス女学院卒のお嬢様だったようです。

 

実家は大きな和菓子店で、

私自身幼いころに

その和菓子屋に遊びに行った記憶があります。

母と従妹たちが仲良く話している姿に、

知らない母を見るような

不思議な感情を抱いたりもしました。

 

 

その母の母が結核になり、自殺を図ったことから、

母の運命の歯車が変わり始めます。

父の再婚、義母のいじめ、

母は、15歳で奉公に出されます。

 

奉公先は、軍医の家だったと聞いています。

花嫁修業とは名ばかりで、

お手伝いさんとして朝から晩まで働く日々。

それでも奥さんがやさしい人で、

「ずいぶん可愛がってもらったのよ」

と母はいっていました。

 

太平洋戦争に突入すると、

母は軍医の一家と疎開。

終戦と同時に横浜に戻り、独り立ちをします。

 

学歴もない母が、戦後のどさくさに紛れて、

役所にもぐりこんだ話は、

ウソかマコトか、

まあ良い時代だったのだろうと思います。

 

そして、経理学校で父と知り合い結婚。

波乱の人生は、

戦後という時代と

家族を持つことによって、

穏やかなものへと移行していきます。

 

けれど、晩婚だった母が、

がんで体調を崩すまでの時間って

実は30年とちょっと。

思ったほどには長くないのです。

 

がんからは生還したものの、

長く続いた認知症。

母にとって、あの時間はどんなものだったのでしょうか。

 

「人生なんて短いものよ。大事に生きなさいよ」

そんな母の声が聞こえてくる気がします。

 

さてさて、今日は孫を預かる予定です。

そろそろ学校から帰ってくる時間。

タオルの用意は、、、

母と違ってまだできていない娘なのでした。