自由が丘駅が、開通したのは、昭和の初期です。私の祖父は、自宅から、目蒲線(大正時代からある)の奥沢駅まで、歩いて会社へ通勤したそうです。
最初の駅名は、『自由ヶ丘駅』でした。ケ→がです。
お隣の九品仏に合わせて、地味な名前を付ける予定でした。自由が丘は、元々、東郷青児さんを始め、多くの文化人が住んでいたので、『自由が丘駅』になりました。
祖父母の話しによりますと、戦時中も、焼け野原にならず、戦後も大きな災害も、事件も無く
名前の通り自由に、のんびり住んでました😊
自由が丘駅が、開通したのは、昭和の初期です。私の祖父は、自宅から、目蒲線(大正時代からある)の奥沢駅まで、歩いて会社へ通勤したそうです。
最初の駅名は、『自由ヶ丘駅』でした。ケ→がです。
お隣の九品仏に合わせて、地味な名前を付ける予定でした。自由が丘は、元々、東郷青児さんを始め、多くの文化人が住んでいたので、『自由が丘駅』になりました。
祖父母の話しによりますと、戦時中も、焼け野原にならず、戦後も大きな災害も、事件も無く
名前の通り自由に、のんびり住んでました😊
私の母は、自由が丘駅の近くにある魚菜学園の料理通ってました。まだ戦後まもない頃です。
母は、初代魚菜さんに、直接に、お料理を習ってました。
魚菜さんは、お料理が、出来上がった時には、
シンクもピカピカにすることに、厳しかったそうです。
私は、母から、料理の味付けより、作りながら、片付ける事を仕込まれるました。
まだ、食洗機も、電子オーブン付きレンジも、無い時代です。
お料理は、今でも苦手ですが、食べる時は、
洗い物ゼロ状態は、なんとか守ってます。
山梨県に20年あまり住んでますが、東京都目黒区自由が丘で、育ちました。
山梨県については、Instagramで、先鋭ながら、発信してますので、今後は、ボチボチ自由が丘周辺なんぞを綴って参ります。
自由が丘駅は、北口、南口2カ所あります。
北口改札を出ると自由が丘デパート、一誠堂、モンブランなどが、あります。私が、物心ついた時からありますから、昭和半ばのお話しです。
南口は、呑み川沿いには、春には、桜の花が咲き、奥沢駅、九品仏へと繋がります。
最近、開発が進み、無くなってしまった建物や、お店も多いですが、少しずつ発信して参りますので、よろしくお願いします。
#自由が丘
Instagram # nobuta3581
自由が丘南口改札