3. 「エクスピリエンシャル・ラーニング」 | 親と子の訓読家庭教会

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後天時代に於ける子女教育を考える

エクスピリエンシャル・ラーニングの意味

さて、子供達が「インサイド・アウト」を中心として、「チャレンジ・リミテイション」で説明した様に少しづつでも限界に挑戦していくならば、彼らは経験を通して色々な事を学んでいきます。このことを「エクスピリエンシャル・ラーニング」、すなわち経験学習と言います。と言うことは「エクスピリエンシャル・ラーニング」による学習は、受動的に何となく活動・生活していても本当の意味では出来ないと言うことです。経験学習は「CARPEpistemology」(カープ式教育的認識論)の中心でもありますが、本当の経験学習をする為には、その前に正しい内省的観点と自主的姿勢、そして挑戦精神がなければいけないのです。




旧約的神体験の限界 

私達が一般的に教会で経験する「神体験」とは、日常的には起こりえない不思議な経験をした時のことを言うようです。この様な外的奇跡体験は特に信仰初期においては必要かもしれませんが、その様な外的奇跡だけが「神体験」の全てではありませんし、それを経験することが信仰生活の最終目標でもありません。私はこれを旧約的神体験と呼んで、次のレベルの新約的神体験や成約的神体験と区別しています(これに関しては別に詳しく説明します)。



イスラエル民族が荒野で出会った奇跡の神体験は、人々に一時的な影響を与えましたが、信仰を長く保ち続けるのは難しく、結局目標に到達できませんでした。何故ならば単なる外的な奇跡体験だけでは、決意するきっかけにはなっても、個人的な心霊的成長や心情的成長までには至らないからです。そして、定着時代にはいるとそのような不思議な出来事がいつまでも起り続けるとは限らないからです。真の御父様が語られた信仰生活における三年目の試練という言葉も、霊界による協助とプッシュだけではいつか限界が来ることを証明しています。



外的奇跡体験が良くない訳ではありません。大切な事は、それらの外的体験を通して、神が自分達に何を教えようとしているのかという神の意図とメッセージを尋ね求める信仰姿勢です。そのように内的意味を探す視点が、「インサイド・アウト」の観点であり、まず自分から変っていこうする姿勢が「インサイド・アウト」の姿勢であります。逆に言うなら、自分の内面を変えないで、他人を変えようとすることは原理的方法でなく、自分も出来ない事を他人にさせることは誤った信仰生活であり、それを続けるとどんどんと間違った霊界から悪影響を受けるようになることもあります。


日常生活で神を経験する後天時代

さて、子供達が「インサイド・アウト」の正しい観点と姿勢をもって、更に「チャレンジ・リミテイション」を通して自らの限界に挑戦しながら、内外共に突破しようと日々努力を続けていくと、神はあらゆる時に、あらゆる場所で、あらゆる方法や、あらゆる人を通して、ヒントを示したり、警戒をしたり、導いたりされるようになります。それらを通して子供達は自身の生活環境と人間関係の中で、神がいかに現れ、何を願われ、どう勝利して欲しいと思っておられるかを少しずつ悟るようになります。



その様な日常生活での奇跡は時には小さなものもあり、気を付けていないと見過ごしてしまうようなものも沢山あります。ですから親が子供の内的事情を良く理解したうえで、報告も聞きながら注意深く見つめて、神がどう働いているかをタイミング良く指摘してあげなければなりません。そhして、たとえいつも神の意思や答えが完全にわからなかったとしても、その様に神を意識し神の意思を尋ね求める生活をすること自体が大切なことなのです。毎日神様からいつも直接的啓示を受けろという意味では、決してありません。私達が知るか知らざるかに関わらず、神は私達一人一人に対して、いつもハッキリとした方向性と教育課題をもってのぞんでおられるのです。



もう一つ大切な事は、奇跡には目に見えるものだけでなく、目に見えないものもあると言う事です。たとえば、自分の心が正しい方向に向かって行ったり(アライメント)、自分の内的条件が満ちて来たりすると(精誠)、変って欲しいと思っていた人達が、何も言わなくても突然良い方向に変り始めると言う様な事が起こってきます。それは具体的に目に見えなかったとしても、旧約を超えた高いレベルでの霊的奇跡です。又、たとえ変わって欲しいと思っている人が最終的に変らなかったとしても、自分が立てた内的投入と基準が、自分自身の心霊的を引き上げたり、神や人に対してより高い心情圏でのぞめるようになったとするならば、それも目には見えない大切な心霊的・心情的な内的奇跡であり、いつかは外的にも展開されてくるはずです。