桜の花も咲いていない3月初旬。厳かに卒業式が執り行われた。式は滞りなく終わり、それぞれが様々な想いを抱きながら解散の時を迎えた。
諫名の下には多くの女子生徒が写真を撮ろうと押しかけていた。その全ての生徒の相手を終え、やっと自由の身になると急いで壱迦を探すために校内を歩きまわった。クラスにも、保健室にも、数学準備室にも、彼女の姿はなく、もう帰ってしまったのだろうかと考え始めていた。それでも、どうしても逢っておかなければいけない、という想いから、何度も通った場所へ駆けた。
少し息を弾ませながら着いた屋上の入口の前で大きく深呼吸をし、扉に手をかけると、微かに声が聞こえた。ゆっくりと戸を開けた先には、初めて逢った時と変わらない姿の壱迦が朗々と唄を紡いでいた。日本語の歌詞は美しく、どこまでも彼女の歌声が響いていくようだ。甘く囁くような、優しい優しいその唄は諫名をひどく落ち着かせ、優しさで包み込んだ。
歌い終えた壱迦はにこりと微笑む。晴れやかなその表情は、以前の儚げなものではなくなっていた。
「卒業、おめでとう壱迦。」
今日何度も口にした言葉を今は彼女だけに贈る。
「うん。ありがとう。」
風に揺れる壱迦の髪に手を伸ばし、いつものように優しく撫でていく。結われていない彼女の髪はサラサラと流れていく。
諫名は壱迦のことを心から大切に想っている。愛しくて、愛しくて、苦しいほどの想いが溢れている。この想いが伝わるなら、伝えられたら・・・。それでも、伝えないのは自身が教師だからという理由ではなく、その言葉を壱迦に伝えてはいけないと、どこかで知っていたからかもしれない。「好きだ」と言ってしまったなら、彼女はいなくなってしまう。それだけは、嫌だったのだ。
「ここに来て、先生に会うのも今日が最後だね。」
ぽつりと、壱迦が話し始める。撫でている方とは反対の諫名の手を両手で包み込み、ゆっくりと言葉を続ける。
「私、死んでしまいたかった。生きていることが苦痛だった。」
何でもないことのようにそう語る壱迦。
「ずっと、ずっと、その想いは変わらなくて、これからも変わることはないと思ってた。」
唐突に諫名は空を見上げていた彼女を思い出す。一点の曇りのない瞳は誰も映すことなく空だけを見つめていた。それは、彼女の中に『死』しか存在していなかったからこそ、どこまでも澄んだ瞳があったのだろう。
「・・・兄さんと約束してたんだ。高校卒業までにこの想いが変わらなければ、もう、止めないって・・・」
諫名を見上げる壱迦の瞳は潤みを帯び始め、声が少しずつ震えていく。
「変わるはずなかった。・・・なのに先生が、いつの間にか傍にいてくれて・・・初めてだった。・・・人が傍にいていくれることが嬉しい、なんて。」
必死に話を続ける壱迦の姿に耐え切れず、諫名は掻き抱くように自分の腕の中に彼女を閉じ込めた。
「手首を、切った時・・・やっと、死ねるって・・・思、思ったけど、・・・先、生の・・・顔が、浮かんで・・・死にたく、ない、って・・・思った。」
どもりながら話される内容に胸が、締め付けられるようだ。
「死が、、はっ初めて・・・怖い、って、、思った。」
慰めるように頭を撫でることしか諫名にはできない。
「せ、先、生が・・・私を、、か、変え、たん、だよ。・・先生に、、逢って、なかったら・・・生き、たい、なんて・・・思えな、かった。」
「壱迦・・・」
「だから、先、生。」
涙が溢れ続ける壱迦の顔は本当に嬉しそうで、幸せそうに泣き笑っている。
「・・・あり、がと。」
何が?と目で問う諫名に彼女は「私を変えてくれたことに、ありがとう。」と言った。
「俺は何もしてない。」
「傍に、いてくれた。それが、一番、嬉しかった。」
諫名の腕の中で壱迦は安心した様子で頬を寄せる。諫名はそんな彼女を強く抱きしめ、耳元にそっと囁いた。
今、伝えることのできる精一杯の想いを・・・。