秋。いつも通り屋上へ諫名たちは来ていた。

「壱迦、進路はどうするか決めたのか?」

 相変わらず、勉強をしない壱迦を諫名は教師らしく心配していた。3年の秋と言えば、センター試験に向けて本格的に勉強に専念し始める時期だ。壱迦の成績は平均的で安心できるようなものではない。

「どうもしないよ。このまま卒業する。」

 諫名の肩に頭を乗せた状態で壱迦はどうでもよさそうに答える。大学に行くつもりはないようで、面倒くさいとまで言う始末だ。何事にも無関心な彼女に物事を提案することはできても、強制することはできない。諫名は今の壱迦を気に入っている。だから、このままの彼女であり続けることは別にかまわない。しかし、生き生きとした表情を見てみたいと思わなくもないのだ。それは、壱迦自身が変わらないことにはどうにもならないことだけれど・・・。

 その翌日だった。壱迦は初めて無断欠席をした。今まで無遅刻、無欠席を維持していただけに心配していると、天海から彼女が入院したと連絡が来た。放課後、教えてもらった病院へ急いだ。

 病室には壱迦が静かに眠っていた。点滴が規則正しく身体に血液と生理食塩水だろうか透明な液体を送っている。特に外傷は見られず、どうして輸血がされているのか気になった。

「壱迦は、手首を切ったんだ。」

 天海は諫名に何があったのか至極簡潔に話した。天海が浴槽で血まみれになっている彼女を見つけ、救急車を呼び、ずっと付き添っていたそうだ。落ち着いたように話す天海の表情は暗く、辛そうに見えた。気を抜けば今にも泣いてしまいそうな、そんな自分を押し殺すように拳をかたく握りしめている。

 壱迦の出血量はとても多く、致死量に近かったそうだ。輸血のための血が足りず、同じ血液型の天海が血を提供したと聞き、諫名は顔色のよくない天海を休ませた。壱迦の顔色は青白く、輸血を受けている今でもまだ、貧血状態であることが容易に分かる。

 何故壱迦が手首を切ったのか諫名には解らない。ただ、彼女がそんな選択をしたことが何よりも哀しかったし、どうして気付いてやれなかったのだろうかとそれが悔しい。

 3日間壱迦は眠り続けた。天海はその間もずっと彼女の傍についていた。諫名も学校を休むことはできなかったが放課後には必ず様子を見に訪れていた。壱迦の顔色も大分良くなっており、天海は諫名に任せて食事に出ていた。諫名は壱迦の包帯が巻かれている左手を握り、早く目覚めて欲しいと思いながら優しい手つきで頬を撫でていた。

「壱迦。」

 諫名の呼ぶ声に反応するように左手がわずかに握り返され、壱迦がゆっくりと目を覚ました。その表情は虚ろで、諫名は掛ける言葉が思いつかなかった。

 医師が診察し、あと数日で退院できるということだった。壱迦が目を覚ましたことに天海は安堵したように瞳に涙を浮かべながら喜んでいた。医師から呼ばれ、天海は病室を出ていき、諫名と壱迦の二人きりになった。どうして手首を切ったのか聞きたいと思った。それでも、何も言えないまま、ただただ、彼女の左手を握っていた。もうこんなことはしてほしくないのだと、生きていてくれて本当に嬉しいのだと、言葉にはできないけれど、伝わればいいと願って。

 壱迦の退院の日。彼女はベッドのに座り、窓の外を見ていた。その瞳は目覚めたときと変わらず、虚ろなものだった。何を考えているのか恐らく誰にもわからないだろう。だから、その瞳から一滴の涙が降りたことに驚いた。何がここまで彼女を苦しめ、苛んでいるのか諫名には分からない。分からないけれど、それでも傍にいたいと、出来ることなら壱迦を悲しみや苦しみから守りたいと思った。

 諫名は壱迦を包み込むように自分の腕の中に収めた。細い肩は少し力を入れただけですぐに折れてしまいそうで全体的に華奢な壱迦がとても儚く感じた。