アメリカの作家F. Scott Fitzgeraldは著書"The Great Gatsby"の中で“人の話を聞くことはとりもなおさず、判断を先延ばしにすることそのものだ。”と言った。今の僕にはその意味がよく理解できる。
 
 正直なところ、僕は人の話を聞くのはあまり得意な方ではない。だから得意になりたいと思っている。というのも、不思議なことに僕は人から重大な話を打ちあけられたり、恋愛相談みたいなことをされることがよくあって彼らの話を上手く導けないたびに申し訳なく思うからだ。ある時期に僕は3つの恋愛相談(男一人、女二人)を抱えていて、いかにその一つ一つに最適な施しを行うかにひどく困惑した。

 実際、人の相談にのったり、話を聞いたりすることはかなり忍耐の求められる行為だ。だけれど、相手の話に熱心に耳を傾けることで得られるものというのはすごく大きい。というのは、自分の気付かない新たな視点を相談者が与えてくれるからだ。人がどういったことに不満を感じ、悩み、つまずくかというのはかなり人によって異なる。人はその違いに気付かない(気付けない)こともおおい。だからよく人は物事を自分の基準で判断して知らず知らずのうちに周りに迷惑をかけてしまう。相談を持ちかけてくる人はそういう混沌として価値基準に新たな視点をもたらし客観性を与えてくれる。この基準は自分の懐を深めてくれるし、自分自身を良い方向に変えていく材料になる。加えて、相談者から得られた物の見方、新たな視点そのものは今後の付き合いにおいてその相手への理解を深めるための大切な宝物になっていくということは言うまでもない。

 よく言われるように上手い話の聞き手(=話の引き出し手)になるのはとても難しい。なぜなら聞き手は相手の置かれた立場を瞬時に想像し理解して、その上で相手の物の見方、考え方に沿って話を上手く導かなければならないからだ。その間、途中で自分の意見と相手の意見が違うと感じるときがあっても、それをぐっと我慢して相手の価値観に沿ってそれに適合するように話を押し進めていかなければならない。これがFitzgeraldの言うところの判断を保留する行為であり、良い聞き手に求めらる第一の資質である。

 良い聞き手になるためには相手の発言意図(言いたいこと)、文脈を読んでそれに応じて相手の想いを導けるような効果的な質問を打つ、それと同時に行う質問に対する相手の回答をあらかじめ予測しておいて(相手のものの見方から)、それにこちらから共感や相手の価値観に沿った気持ちの代弁なりの正しいリアクション用意し、それをテンポよく返していくことが必要である。ただこれを瞬時におこなうには相当な頭の回転が必要で決して簡単なことではない。

 しかし、どういうわけか幸運なことにも僕の親友は皆、真の話の聞き上手だ。合わせて彼らは懐の深さみたいなのを持ち合わせている。G、S、S、G、K、M、Uさん、C。僕は彼らからその技術を学ばなければならないと思っている。(C、いつも苦しいときのC頼みでいつも頼って申し分ない。)そして学んだ技術を実践をとおして磨いていかなくてはならない。僕は今はその実践の場を文字を読み返すことのできて比較的話を引き出すことの容易なチャットの世界に求めている。その実践の相手こそ、僕にとってすごく大切な人たちなのだけれど。

YOHEI
【乙会ブログ再掲載シリーズ②】

-------飛行機から見下ろした夜のホーチミンは、まるで金箔が地上を覆っているかのようであった。最初にホーチミンの地を踏んだ時、そこでは沈香がたかれているかのような心地よいベトナムのにおいがした。

Mot Hai Ba(モッ・ハイ・バー)

 ベトナムを歩いているとどこからともなく、この言葉が聞こえてくる。僕はこの夏、ベトナムの子供たちと交流するために南部の大都市ホーチミンを訪ねた。“Mot Hai Ba”、日本語でいうなら「一・二・三」の掛け声に当たるのだが、これがベトナムではジャンケンポンの意であったり、子供たちが“だるまさんが転んだ”をするときの呼び声だったり、はたまた杯を交わすときの音頭だったりする。

 ベトナムは政府の推進する“ドン・モイ(刷新)政策”の下に急速に発展を遂げている。道路にバイクが所狭しにあふれ―ベトナムではバイクのことを「Honda」という。日本のバイクメーカー、ホンダにちなんだものだ―、近代的な建物が次々と乱立し始めている。

 しかし、振り返ればほんの30年前のベトナムは戦場だった。ベトコンと呼ばれるベトナム解放軍とアメリカ軍との熾烈なゲリラ戦が何年も続き、死傷者だけがただ増えていく混沌とした状態がそこにはあった。今日のベトナムの繁栄には、そうした戦争の残していった大きな陰のようなものを感じざるを得ない。


 僕が最初に訪ねたのは、ホーチミンの中心部から15分ほど車で移動したところにある南部最大の産婦人科系総合病院、ツーズー病院だ。この病院は産婦人科を専門としているが、それと同時にベトナム戦争時にアメリカ軍によって撒かれた枯葉剤(化学兵器)の後遺症で苦しむ子どもたちの保護・リハビリを行っている。枯葉剤(化学兵器)とは、ベトナム兵の潜む森林の枯死を目的に、1961年からベトナムに散布された猛毒のことである。この毒薬は植物を枯らすことにとどまらず、人体にも甚大な被害をもたらした。とはいっても、子どもたち自身が枯葉剤(化学兵器)の散布に晒されたわけではない。子どもたちの親や祖父、祖母の世代の被爆が、40年ほど経った今、子どもたちに目に見える症状―視聴覚また知的障害、奇形児出生―としてあらわれているのだ。

 僕がベトナムを訪れた1週間で感じたのは、日頃から何の気なしに耳にしている事柄が、急に現実感をもって身に迫ってきた、どこか焦燥観にも似たかなり奇妙な感覚だった。僕らは常日頃から、新聞やニュースでHIVのことは聞いてはいる。戦争の悲惨だって学校の授業などを通していくどとなく聞かされている。もちろん、そうしたひとつひとつの事がベトナムの地を踏んだことで実際に現実として僕の中に組み込まれたわけではないのだけれど、そういういわば“知識”と現実との間の距離が限りなく近づいたとき、背筋が凍りついて、身が切り裂かれるようなやり場のない思いがこみ上げてきたのだ。






「ここにあることが現実だとは思いたくないの。」







 僕はこの言葉を決して忘れないだろう。ツーズー病院で奇胎児として生まれ、亡くなっていった子供たちをホルマリン漬けにして保管している部屋に案内されたときに、ある日本人の女の子が大粒の涙をたたえながら、僕にこうささやいたのだ。このときの僕は彼女のこの言葉にただ呑み込むことしかできなかった。




 僕はおそるおそる、だけどどこか希望を持ってツーズー病院のグエン・チ・フォン・タン医師に訊いてみた。「僕たちが子供たちに出来ることはありますか?」と。

  彼女は手にしていたグラスを机におき、大きく息をのんだ。
そして窓の外の子供たちの元気な姿に目をやりながら答えた。


「楽しく、一緒に遊ぶことが一番です。」と。

YOHEI

(再掲載元:http://www.zkaiblog.com/jradv/23765)
【乙会ブログ再掲載シリーズ①】

 はじめまして、乙会中学コースで社会の学習アドバイザーをしております○○です。
今日は、日ごろ僕が大切にしている言葉を紹介したいと思います。それは僕の通っていた中学校の校訓である「一歩々 行万里」という言葉です。"いっぽいっぽゆくばんり”と読みます。


 僕の中学校には、毎年2学期の終業式の前日に、全校生徒である半島48kmを歩きとおすという行事がありました。「一歩々 行万里」という校訓はこの行事のキャッチフレーズです。もちろん中学生にとって、一日で48kmの距離を歩きとおすのは至難の業ですし、同級生の多くはこの行事を疎ましく思っていました(かく言う僕もこの行事に備える形で一ヶ月前から始める、持久走にはだいぶ閉口させられていましたが)

 しかし、いざその行事が始まって、全校生徒が48kmの道のりを歩き出すと、みんなの顔色が真剣なものへと変わります。その歩みは文字通り校訓である「一歩々 行万里」という言葉が一歩一歩、身にしみて感じられる瞬間であり、完歩したときの喜びは何事にも代えがたいものでもありました。僕はこの行事からはじめの一歩を踏み出すことの大切さと勇気を学び、48kmの歩みを終えたときの、その達成感を今でもはっきりと覚えています。

 僕はこの「一歩々 行万里」という言葉には大きく二つの意味があると思っています。ひとつは、万里を行くにも最初の一歩を踏み出す必要があるということであり、もうひとつは、一歩一歩の積み重ねが、やがては万里の道なるということです。このことは勉強や部活をするにあたってもいえることではないでしょうか。中学生の皆さんの中にも、勉強するには気が引けるなぁとか部活でレギュラー取るにはむずかしいなぁと感じている人もいるかもしれません。でも実はそのはじめの一歩を踏み出す勇気が大切で、一歩一歩確実に前へすすんでいく継続性が大きな夢を引き寄せるのです。『万里の道も一歩から』物事を長いスパンで捉えて、自分の可能性を信じてほしいと思います。

YOHEI

(再掲載元:http://www.zkaiblog.com/jradv/23765)