死亡ひき逃げの時効
いささか旧聞に属するかもしれないが、9月27日の毎日新聞
1面に死亡ひき逃げ事件の時効についての記事が登載されていた。
記事によると容疑者が逮捕されず公訴時効が成立したのは04(平成
16)年から08(平成20)年に151件だそうである。
死亡ひき逃げは業務上過失致死(自動車運転過失致死)と道路交通法
の救護義務違反の罪に問われ、公訴時効は5年(道交法改正により
07年9月からは7年)。
死亡ひき逃げは法的に過失に分類され、故意の殺人罪とは、時効や
罪の軽重に大きな違いがある。
警察庁によると、全国で99(平成11)~03(平成15)年に起きた
死亡引き逃げ事件は計1516件、うち約10%の151件が時効成立。
一方で殺人事件の時効成立は約4%で、死亡ひき逃げ事件の時効
成立割合は殺人の2.5倍となる。
ひき逃げは、車のガラスや塗膜片など現場に物証が残っている場合
が多い。その反面、被害者との接点がないことが殆どで、容疑者が
把握困難な事が多い。
またこの記事の解説として、全国交通事故遺族の会、常盤大学大学院
の諸澤英道教授の意見を載せている。
この解説に述べられている点にはおおいに疑問がある。
まずその解説に触れて見る。
「全国交通事故遺族の会などは法務省に対し、死亡ひき逃げ事件の
時効撤廃を求めている。過失でも逃げた時点で故意があると考え
『死亡ひき逃げは殺人』とみるからだ。
常盤大学大学院の諸沢英道教授(刑事法)は『逃げたことを認識して
いる明らかな故意犯。刑法に「ひき逃げ罪」を新設して刑を重くすべきだ』
と、新たな罪種を作ることを提案、時効に関しても長くすべきだと考えている。
現在、法務省は殺人などとともに死亡ひき逃げについても時効の見直しを
進めているが、過失事故と『逃げる』罪の違いを明確にするのも議論を深め
る一つの方策だろう。そして、警察当局は、殺人より時効成立の割合が
倍以上あるという実態を直視志、捜査体制の強化や事故を減らすために知恵
を絞ることも求められる。【山本浩資】 」
以上、記事については一部要約し解説については全文を再現した。
それは、この解説には、刑法体系をゆるがせにする重大な問題があるからである。
まず記事については、事実の指摘であってこれに異論をさしはさむ余地はない。
しかし解説には大きな疑問がある。大きく分類すると以下の2点である。
① 死亡ひき逃げは殺人か。
② 逃げたことを認識すれば何の罪の故意犯か。
刑法では、犯罪行為の実行段階で、刑罰法規にかかれた犯罪の結果を意図して
実行におよぶものを故意犯、結果の回避可能姓があり、その発生を予見できたにも
かかわらず、法に触れる結果をもたらしたものを過失犯として規定している。
それが罪刑法定主義の根幹をなすものである。
刑法はいかなる行為がどういう罪名の罪に該当し、それに対していかなる刑罰が
科されるかを予め、行為規範、裁判規範としての刑法に定めることを
要請されている。
具体的な行為の瞬間に意図しなかったものを、結果の重大性のみを基準として、
重い罪に問うことを無限に認めるわけにはいかないのである。
最も基本的には故意犯があり、過失犯は犯意を超えて、あるいは犯意なくして
重大な結果を招来させた場合に例外的に科されるのを基本としている。
ひき逃げに絞って検討してみよう。
ひき逃げの場合には、まず過失によって交通事故を起こした場合と、自動車を
凶器として人の死、傷害を図る場合とに分類されよう。
凶器として自動車を使用する場合、過失ではなく殺人または傷害の罪にあたるのは
いうまでもない。
前方不注意等の過失によって他人を転倒させ救護することなく、その現場を立ち去る
行為が所謂ひき逃げである。ひき逃げの結果被害者が死亡するか、あるいは重傷か
軽傷かは事例毎に異なることである。
重大な結果に対して結果加重犯として、致傷、致死の罪が設けられている。
事故当時殺人を意図していない場合には、過失致傷、過失致死が問題とされても
死亡の結果だけから死亡ひき逃げを殺人とするには、殺人罪の成立要件を
無限に拡大し、刑法の故意過失の概念を根底から覆すあらたな概念の成立を
必要とするものである。
逃げることを認識していても、事故被害者が必ず死亡するという認識があるとは
言いきれない。故意犯とするには故意、過失の定義の変更が必要である。
議論のなかで置き去りにされている条文もある。それは保護責任者遺棄の罪である。
刑法第218条は老者、幼者、不具者又は病者を保護すべき責任ある者これを遺棄
し又はその生存に必要なる保護を為さざるときは3月以上5年以下の懲役に処すと
定めている。
自動車運転者が過失により通行人に重傷を負わせたときに、運転者は怪我人を
保護する責任があることは、昭和34年の最高裁判決等により認められている。
事故をおこしたという先行行為により保護責任が発生し、これを遂行しない場合
には保護責任者遺棄の罪を運転者に問うことがてぎるのである。
そして続く第219条は保護責任者遺棄の結果的加重を定めている。
保護責任者遺棄の結果、人を死傷に致したる者は傷害の罪に比較し重きに従って
処断す、としているのである。
死亡ひき逃げを議論する場合には、この保護責任者遺棄、同結果加重の適用
と、その罰状を他の刑法犯との比較で論ずべきものであろう。
ひき逃げの捜査は確かに証拠物が残されるが、ほとんどの物が大量生産品であり、
破損状態、形状に頼らざるを得ない部分が多い。目撃情報、防犯カメラの映像等
の証拠がない限り、犯人検挙は容易ではない。
殺人事件を起こすのと事故をおこすのとでは、要する時間に大きな差があろう。
まして動機などというものが考えられなければ、その捜査が結実しない可能性は
殺人の比ではなく、例え公訴時効を延長しても全ての死亡ひき逃げ犯の検挙は
不可能であろう。