公訴時効について
世田谷一家殺害事件の遺族が記者会見を開いて、公訴時効の停止を求めた
ことなどにより、公訴時効の停止についての見解が新聞紙上、週刊誌上に
掲載されている。
いささか情緒的にすぎると思われる点もあるので、少し公訴時効制度について
考えて見る事にした。
刑事事件に関する時効には、刑法の規定する刑の時効、刑事訴訟法が規定
する公訴時効が存在する。
一般に議論の対象となっているのは、公訴時効制度である。
殺人事件に関する公訴時効は刑事訴訟法第250条により、
平成16年(2004年)12月31日以前の事件は15年、平成17年(2005年)
1月1日以降の事件については25年となっている。
公訴時効の本質については一般に、実体法説、訴訟法説、新訴訟法説などと
して説明されることもあるが、単一の理由により設置された制度ではなく、
これらの単純な説によるものでは無い。
説かれている説を概観しておく。
実体法説は、時間の経過により犯罪の社会的影響が希薄化していき、国家の
刑罰権が消滅することを本質とすると説く。
訴訟法説は、時の経過とともに証拠が散逸し事実認定が困難となるため、
適正な審理が困難となる可能性があることを理由とすると説く。
新訴訟法説は、犯人と思われる者が一定期間訴追されないことで、その状態を
尊重し、個人の地位の安定を図る必要によると説いている。
どの説も単一で全てを説明することは出来ない。これらの説に説かれる理由
とそれ以外にも理由があり採用されている制度である。
殺人事件の発生から、捜査、検挙、公訴、裁判の一連の流れを総合的に
眺めてみることが必要である。
殺人事件が発生するとともに時効の開始がある。警察により捜査が開始され
証拠が収集される。証拠には物的証拠と人的証拠があり、これらは適法に収集
される必要がある。自白は証拠の王様とされた時代もあったが、現代においては
自白のみで有罪とされることは無い。長期間の拘束後や強要、誘導に基づく
自白を廃除するよう、自白の任意性が求められている。
公訴提起は公判を維持するに足る充分な証拠を用意してから為される。
違法収集証拠は裁判により廃除されるため、証拠能力と証明力のある証拠が
有罪を立証するために収集、裁判所に提出される。
公判では、弁護側の証拠調べが行なわれる。警察官、検察官の前でとられた
調書等も被告、弁護側の同意がなければ直ちに証拠として採用することは
出来ない。
充分な証拠用意できなくなる可能性は時間の経過とともに少なくなるのは、
事実としては充分ありうる。これが訴訟法説のとく理由でもある。
犯行現場、凶器等の遺留物から検出されたDNAは確かに有力な証拠たりうる
がそれだけで全てを説明することは出来ない。
どういった状況で発見された物から採取されたかの説明が不可欠である。
他人に罪をかぶせるため、あえて準備された可能性、捏造の可能性を
否定するための周辺証拠が必要なのである。
時間の経過とともに人的証拠、すなわち証人の記憶も曖昧になることも考慮
せざるを得ない。法廷で証言するためには、曖昧な記憶によることはできない
からである。
裁判では無罪の推定があり、疑わしきは被告人の利益に、という原則があり
充分な犯罪の証明が要求されるのである。
事件の遺族を除けば、時の経過とともに、社会の関心がうすれるのも事実で
ある。再度犯罪を犯せば、余罪として殺人事件の犯人とされるが、ふたたび
犯罪をおかさなければ、社会は、新たな犯罪へと目を移していく。
公訴時効が問題とされる殺人事件は2つの類型に分類することが出来よう。
容疑者が特定され指名手配がされる場合と、容疑者不明のまま時間が経過
するケースである。
特に後者の場合、容疑者が事件をしらない異性と婚姻をなし、子供がうまれる
ことは当然考慮すべき範疇に含まれよう。
犯罪者に家族があることは、ある意味当然で、なんら考慮する必要はないと
いえるのかも知れないが、時効がなければ、突然配偶者を、親を犯罪者で
あるがゆえに奪われることとなる。平穏な暮らしが一変し、犯罪者の家族と
して世間の白眼視に耐えざるをえなくなるのである。
残酷な言い方をすれば、殺人事件の被害者は生き返る事は無い。
新たに不幸になるひとを生み出すことをどこまで肯定すべきなのか。時効制度
は事件の遺族にとっても、事件の日に止まってしまった時間を、凍りついた状態
から、諦観を必要とするとはいえ、将来に向けて歩み出す契機を提供する機能
も持つのでは無いだろうか。
殺人事件の検挙率は一般的には高い。そして、事件発生から10年もたてば
検挙の可能性は著しく低下する。
当初は捜査本部が設置されるなどして、捜査に投入される警察官の人数は多い
が、時間とともに担当する人数は少数とせざるを得ない。捜査官の人数には
限りがあり、捜査には費用もかかる。捜査経済とでもよぶべき問題も存在する
のである。専従で捜査する担当者の苦労は、職業として当然なのかもしれないが
虚しく一生を解決できない事件のため過ごす事に、一顧の価値すらないとは
言い切れまい。
公訴時効が16年と17年で期間がちがうことに不満も聞かれるが、刑事法制は
材刑法定主義により、遡求禁止を原則とする。
行為の当時合法であったものが事後法により違法とされるような事態があれば、
社会生活を平穏におくることが不能となるためである。
法改正の前後により時効、刑期、罰金額等がことなるのは、受容すべきことで
ある。
公訴時効は、時間の経過による社会的影響の減少、適正な裁判の確保、犯行後
の人間関係等の保護、捜査費用、捜査官の問題等の全てを勘案して、
やはり必要であり、それは殺人事件の場合にのみ停止すべきものでは無い。