1979年の、プロ野球日本シリーズの話。近鉄対広島、どちらが勝っても初の日本一。三勝三敗の五分で迎えた第七戦は、歴史に残る名場面を最後に残していた。それは勝者も敗者にも、「極上の作品」となった。

 4−3で広島がリードして、9回裏になった。マウンドには広島のリリーフエース、江夏豊。まだスピードガンのない時代、江夏は誰も打てないストレートを投げるピッチャーだった。純粋に球が速かったのか、それとも回転数が多くて伸びのある球だったかはわからない。

 はっきりしているのは、彼が二十代後半にして血行障害を患ったこと。握力が維持できなくなり、長いイニングを投げられなくなったこと。そして何より、もう速いストレートが投げられなくなったこと。

 阪神を放出された江夏は、南海で野村克也兼任監督の指導を受ける。野村監督の勧めで、先発を諦めリリーフに回る。それが日本プロ野球界で初めての、リリーフエースの誕生だった。

 南海から広島に移籍しても、江夏はリリーフとして大活躍した。そしてセ・リーグ優勝に大きく貢献。そして近鉄と、日本シリーズを戦った。勝ちゲームでは、いつも江夏が最後にマウンドに立った。現在のリリーフとは違い、彼は八回、あるいは七回のピンチからマウンドに上がった。

 1979年の日本シリーズに戻ろう。その日江夏は、七回途中からマウンドに上がった。試合は一点を争う、スリル満点の展開。そして運命の9回裏が訪れた。

 初の日本一に、なれるかなれないかの決戦だ。その緊張感のせいか、江夏ともあろうものが、ヒット、四球、敬遠でノーアウト満塁の大ピンチを作ってしまう。外野にヒットが抜ければ、即逆転サヨナラの状況だ。

 野球に詳しくない方に、解説しておこう。ヒットは内野を抜けていくのがほとんどだ(内野ヒットもある)。外野が前進守備、つまり内野のすぐ後ろに守れば、ヒットが出ても一点で止める可能性はある。だが、大きな当たりで外野の頭を越されたら?二点取られたら、逆転サヨナラだ。

 後ろに守っていれば、フライを取ってアウトにできる可能性はある。犠牲フライで、一点は取られる。すると、延長戦になる。でも、負けるわけじゃない。だから、前進守備を取るのは、本当に勇気がいる。

 江夏は、プライドが異常なまでに高い。だから彼は、ノーアウト満塁は全部自分のせいだと考えた。その上で、この始末は全部自分でつけようと覚悟した。次のヒットを打たれて、サヨナラ負け。彼はA級戦犯になる。後のインタビューで江夏は、「それでも、気持ちよかった」と語っている。

 つまり彼は、ノーアウト満塁になって、ありとあらゆる不幸を受け入れる覚悟があった。「当たり損ねじゃなくて、クリーンヒットを打たれたかった」と、後に語っている。この言葉は、そのまま受け入れない方がいい。実は江夏は、負ける可能性を思い浮かべても、同時にほぼ抑えられると考えていたはずだ。

 この絶体絶命の窮地、一方で球団悲願の日本一。この二つを、当時30歳の江夏は両肩に背負った。この世のほとんどの人は、このプレッシャーに耐えられない。だが、江夏は違った。自信があったのだ。それは、彼の豊富な経験。弛まぬ努力により、身に付けた高い技術。さらに、野球を通して知った人間の正体。繰り返すが、彼には自信があったのだ。まだ、30歳だったのに。

 真骨頂は、すぐ現れる。ノーアウトで、代打佐々木恭介。左殺しで、有名な選手である(野球では、左ピッチャー=江夏を得意にする右バッターのこと)。江夏は彼に対し、内角のボール球を延々と続ける。この時点で、並のピッチャーではない。大抵のピッチャーは誰、同じ状況なら外角ギリギリの配球になるだろう。だが江夏は、攻めなのだ。常に。

 ツーストライクとなった後、とても地味だけれど、刺激的なクライマックスが訪れる。ここで江夏は、佐々木に対して内角ボール球、しかも足のすねに当たりそうなストレートを投げる。

「これが、僕の最高の球です」

 あるテレビ番組で、江夏自身がこう語っている。だが受け手のアナウンサーが、その意味を理解できなかった。江夏が熱く語っているのに、そのアナウンサーは流してしまう。そこで、野村克也の解説を紹介する。

「ここで、ボール球を挟むのが江夏なんです」と、野村克也は指摘する。「この球を見せておいて、次の手を打つ」

 江夏は、その日マウンドに立って、カーブの調子がすごくいいと思ったそうだ。

「今日のカーブは、キレている。だから今日は、カーブを主軸に組み立てよう(ピッチングを)」

 江夏は、佐々木恭介のすねめがけてボール球を投げた。血行障害のせいで、130kmちょっとのストレートだ。かつては、160km出ていたかもしれない。だが今の江夏には、遅いストレートを活かす技術、経験、そして人間そのものに対する知識があった。

 江夏は次の一球で、三振を取りにいった。選んだのは、もちろん今日好調のカーブ。というか、このカーブを投げるために、前の球をすねに向かってストレートを投げたのである。すね近くの低めの球、足に当たるスレスレ。誰も打つわけはない。

 江夏の芸術的カーブが、佐々木恭介に向かう。それは最初、外角高めに見える。そこからスピードが急激に落ち、ギュインと曲がり落ちる。ボールはストライクゾーンを、外角高めから内角低めへと滑り落ちていく。そして最終的に、さっきと同じ「内角低めのボール球、すねのあたり」に落ちる。

 もう一度、野村克也の解説。

「前の球と、同じところ。でもカーブだから、前の球よりずっとストライク寄りに見えてしまう。見逃せば、完全なボール球。でもこの球を見逃せるのは、超一流でないと無理でしょう。そう、王、長嶋だけですよ」

 後に江夏は、この配球について「ちょっと出来過ぎ」と語っている。「あまりにも、うまく行った」と。佐々木恭介は、完全なボール球を空振りして三振してしまう。彼は前のストレートとの、「差異」=目の錯覚にやられたのだ。完全なボールを、ストライクと勘違いしたのだ。

 後に佐々木恭介は、この最後のカーブが打てなかったことについてコメントしていない。むしろ彼は、江夏が投げた二球目を悔いている。江夏は珍しくコントロールミスをして、ストレートを外角高め、真ん中よりに投げている。それは左殺しの佐々木にとって、打ちごろの球だった。だが彼は、それを見逃してしまう。

「もう一度、人生をやり直せるなら。私は、あの二球目からやり直したい」

 おそらく彼も、初の日本一がかかった場面で、平常心ではいられなかったのだろう。

 この後江夏は、これまた芸術的技術でスクイズを外す。三塁ランナーをアウトにし、ツーアウト。さらにそのバッターを、また内角ボール球のカーブで三振に仕留める。スリーアウト。広島は、初の日本一に輝いた。

 長々と大昔の、プロ野球の話をしたのは訳がある。江夏豊というピッチャーに、栄光と挫折、そこから蘇る典型例があるからだ。彼は病気(血行障害)という致命的なハンデを負った。だが彼は、ハンデを跳ね返した。さらに彼は、とても勉強熱心だった。

 すねを狙った、ボール球のストレート。それを魅せておいて、次の同じところへ曲がるカーブ。その差異とキレが、とても効果的だと彼は知っていた。まさに超一級の「作品」だ。だから彼は、その後も超一流であり続けた。江夏豊は、私たちにたくさんのことを教えてくれる。

 スポーツライターの故山際淳二さんが、この九回裏のドラマを「江夏の21球」というノンフィクションにした。これまでに、とんでもない数の人々がこの「作品」に魅了されただろう。

 江夏にとって「大人になること」は、血行障害を患うことだった。20代後半で、速いストレートを失うことだった。もう先発投手も、出来なくなってしまった。50球も投げたら、握力がほとんどなくなったそうだ。

 病気になって、江夏はすべてを諦める選択肢もあったろう。だが周囲の支え、そして何より本人の強い意志によって。さらに、プライドによって彼は生き残った。

 

 ヘーゲルが理性の章で語っていることの核心は、「事そのもの(=社会)」である。ヘーゲルのような哲学者は、「絶対に正しいこと」を押し付けてくる怖い先生のように見える。だがそれは、全くの誤解だ。この「精神現象学」も、一つの「作品」に過ぎない。「事そのもの(=社会)」において、人々の評価・審判を受ける。気にいる人も、気にいらない人もいるだろう。でも、それでいいのだ。

 私たちは「作品」を通して、人と繋がることができる。私たちは「作品」を通して、新しいこと、より良いアイデアをつかむ可能性がある。それは壮大な「正の連鎖」となりうる。その連鎖が上手くいくかは、人々の作品(労働、遊びも含む)の出来栄えにかかっている。

 アメリカが世界一の超大国である理由は、無名の人々の「作品」を積極的に評価するからだ。多民族国家であることから、誰(民族、人種、外国人)でも良い「作品」を発表すれば成功する可能性がある。これがアメリカン・ドリームだ。世界中の頭脳が、アメリカに集まって研究をしている。ベンチャー企業を立ち上げている。エンターテイメントを披露している。そんな新しい開拓者に、喜んで資金を出す人々がいる。

「事そのもの(=社会)」を殺すのは、独裁国家である。全体主義国家である。宗教の原理主義国家である。そういう国家では、正しいことは固定される。支配者に都合の良いことが、真理となる。そんな世界では、人が「作品」を社会に問う基盤も理由もなくなるのだ。

 

 マイノリティーであることは、この「事そのもの(=社会)」への不参加につながる。それはある国家内の、少数民族とも重なる。「一緒にしないでくれ」と、両者から訴えられるかもしれない。だがこの問題は、根が同じなのだ。それはいわゆる、アイデンティティの問題である。

 アイデンティティとは、自己同一性などとわかったようなわからないような訳語がついている。誰もがアイデンティティについて、様々な意見を語る。だがこの問題は、「事そのもの(=社会)」から個人(個別性)へ戻って考えるのが良いと思う。

 つまり人は、自分の「作品」が社会(=市場)で評価されることで、生きていく手がかりをつかむ。だがそれは、自分が社会(=市場)のプレーヤーとして認められていることが大前提である。

 日本人は日本にいるとき、プレーヤーとして認められていることを自覚しない。でも海外に行ったら、自分が現地の人々になかなか受け入れられない経験をする。そのとき人は初めて、自分が努力なしに得ていた参加資格のありがたみに気がつく。だから「若いうちに、海外へ出ろ」なんて、大人は若い人に助言する。長閑なものだ。

 だが私はあえて、在日朝鮮人、琉球人(あえて、この呼び方を使用する)、アイヌ人について話そう。彼らは日本社会に身を置きながら、社会(=市場)のプレーヤーになれるか不安を抱えている。

「私、沖縄出身なんですけど、見かけ(顔)ですぐわかりますか?」

「私、女なのに、胸毛があるんです・・・」

 私が若いころ、ある若い女性から相談を受けた。そのとき私は私なりに、彼女を慰めようと試みた。だが所詮、私はバカな若者だった。私のアドバイスは、気休めにもならなかったろう。

 琉球人とアイヌ人は、DNA鑑定から倭人にとても近いことが判明している。それに対して多くの日本人は、倭人からDNAの観点で離れている。なぜだろうか?それは、朝鮮半島からの渡来人と混血しているからだ。渡来人と倭人の混血が、日本の多数派となった。色白で、顔はのっぺりとして彫りがなく、毛も薄い。

 私は日本人のルーツについて、語りたいのではない。語りたいのは、琉球人とアイヌ人が日本国において少数派であることだ。つまり彼らが、日本社会(=市場)のプレーヤーであることに違和感を感じてしまうのだ。アイデンティティとは、その社会に自分が属していると実感すること、自分がその社会でフェアな競争のプレーヤーとなれることを意味する。

 琉球人のルーツを持つ人々は、日本中で暮らしている。だが先ほど紹介した女性のように、自分がフェアな競争社会のプレーヤーになれないと感じたとき。あるいは、明示的な差別を受けたとき。自分は、社会の外側にいると考える。

 日本人と、琉球人、アイヌ人の差異。それを少数者が実感したとき、それが解決し難いと見えたとき、少数者のアイデンティティは深刻な危機を迎える。

 

「私は、日本人ではない」

 

 悲しいことだけど、これは少数派にならないと理解できない。多くの日本人は、日本人はみんな同じだと考える。うっかりと、少数派の人々を見過ごす。彼らの苦労や絶望や、血の涙に気がつかない。とても、寂しいことだと思う。

 かたや、在日朝鮮人がいる。私は、金鶴泳さんという小説家を紹介したい。彼は1938年に群馬県で生まれ、東京大学大学院を中退して小説家になったそうだ。彼のテーマは、自分の吃(ども)り、そして「在日(朝鮮人)」であること。彼は積極的に、自分のアイデンティティに関わる問題を、小説という「作品」にした。彼は何度も、芥川賞候補になった。

 1985年、金鶴泳さんはガス自殺する。まだ、46歳だった。その理由について、私は詮索をしたくはない。自殺の理由を得意げに話す、名探偵のような人間に堕したくはない。ただある人が、自ら死を選んだ。それを私たちは、どう受け止めるか?口を強く結び、ただ想うことだ。

 鷺沢 萠さんという、女性小説家がいた。1968年生まれで、私と同年代だ。彼女は小説家になってから、自分が在日朝鮮人であることを知ったらしい(詳細は、わからない)。その後彼女は、自分のルーツを辿っていたようだ。2004年、彼女は自殺した。まだ、35歳だった。彼女についても、私は下らぬ妄想をめぐらす気はない。ただ私たちは、鷺沢さんと永遠のお別れをした。以上だ。

 

 非常にドライなことを言うが、アイデンティティとは「程度問題」である。根本的な問題ではなく、程度がどうかという問題である。18世紀、スコットランド!の哲学者である デヴィッド・ヒューム はこう書いている。

 

「(私がイタリアにいれば)イタリア在住のイギリス人は友である。(中国にいれば)中国在住のヨーロッパ人は友である。おそらく月世界で人間に会ったら、人間というだけで愛情を感じるだろう」(デヴィッド・ヒューム『人性論・第四巻』より)

※ スコットランドとイングランドが、決して仲が良くないことに注意して読んでほしい。

 

 煎じ詰めれば、これだけの話だ。ニューヨークで黄色人種排斥運動が起これば、日本人と韓国人と中国人とベトナム人は戦友になれるだろう。だがニューヨークのチャイナタウンに立ち入れば、中国人以外は外側の人になる、日本人も韓国人もベトナム人も。

 紀元前にマケドニアのアレキサンダー大王が、地中海からインドまでの大帝国を築いた。彼は各地にアレクサンドリアという自分の名前の街を作った。彼はギリシャ文化を広めつつ、各地の文化も吸収した。ヘレニズムという文化が生まれ、人々は人種を超えて世界市民(コスモポリタン)となった。

 注意すべきは、私が指摘した「日本人、琉球人、アイヌ人、在日朝鮮人、・・・」という区分は、世界市民(コスモポリタン)という巨大な枠に吸収できることだ。これは現代で言えば、ユーロ圏に似ている。

 ヨーロッパ諸国の民族(国境)を取っ払うEUだが、現在はそこからの分離に傾いている。この謎は上記に記した通り、デヴィッド・ヒューム が約200年前に解いている。枠は重要に見えるが、人が考える「枠」とはとてもいい加減だ。つい最近まで、ヨーロッパ各国がEUに参加したがっていたのだ。

 人の心は、かくも移ろいやすい。だが私は、そんな人々の心理に振り回される気はさらさらない。真実は明らかであり、その真実は「事そのもの(=社会)」の承認ゲームにある。日本人だから、在日朝鮮人だから、・・・、にはない。

 ”ヘイト・スピーチ”なることをする人々がいる。そんな奴らは全員、月に送ればいい。そうすれば、「月世界で人間に会ったら、人間というだけで愛情を感じる」からだ。全て丸く収まる。

 ヘイト・スピーチをする人は、差別主義者であり、かつ「敗者」である。彼らがもし、白金台のシックな低層階マンションに住み、車はフェラーリで、子供は慶應の小学生で、来週からヨーロッパ出張に行く予定であるとき、貴重な休みをヘイト・スピーチ参加に割いたりしない。富者はゆとりがあり、概して穏健だ。人は自分に余裕のあるとき、いくらでも優しくなれる。

 敗者たちが過激な行動を取るのは、実は必然の結果である。というのは、「事そのもの(=社会)」の承認ゲームに敗れたとき、敗者はその原因を探す。自分のせいだと納得したら、それはそれで危険である。だがたいていは、特定のグループ・集団・民族のせいにされる。ユダヤ人だったり、東欧や北アフリカからの移民だったり、シリア難民だったり・・・。

 だが本当の原因は、不景気にある。それは天変地異によるものや、経済構造そのものが原因であることもある。だが敗者たちは、わかりやすい攻撃対象を求めてしまう。けれどそれは、ちっとも論理的でない。イギリスは、EUから離脱した。離脱支持派は、移民が仕事を奪っていると言う。EU がイギリスに、不利な取引をしていると言う。それが間違いだと、じきに証明されるだろう。

 

 私は日本人の多数派におり、かつ異性愛者である。私は気楽な立場で、アイデンティティの危機に困っている人の話をできる。だが、危機の現場に駆けつけず、観客席で言葉遊びに耽るのは愚かである。

 まずアイデンティティの危機にある人に、「私はあなたの味方だよ」と伝えること。それを時間をかけて、誠意を持って説明すること。そうすることで、危機にある人の信頼を勝ち取ること。この長く、困難な道を歩むこと。この道を歩いていない言葉は、どんなに装っても虚偽になる。

 多様性(Diversity) の観点から、あらゆるマイノリティーを受け入れようという動きがある。悪いことではない。やらないよりはマシだ。だがあんまりにも、のんびりしてませんか?休日の夜に動物番組でも見て、「自然ってすごいな。多様性って、なんとなく大切な気がする」とか言ってるみたいだ。

 あのね。ことは、一分一秒を争うんだよ。あなたの前に、何らかのマイノリティーを自認する人がいたとしよう。私たちがすべきなのは、多様性(あなたと私は違う)を確認することではない。相手の首ねっこをつかんででも、こちら側に連れてくることだ。「あなたと私は同じだ」と、語りかけることだ。多様だ、ではない。そうしないと相手は、今夜命を断つかもしれないんだよ?

 私は、「事そのもの(=社会)」を代表する大人として「保証」する。全身全霊をかけて、命をかけて「保証」する。「あなたと私は同じだ」と。この「保証」には、知識と経験に裏打ちされた説得力が必要だ。江夏のように、私は賢くなければいけない。

 マイノリティーが負う傷も、突き詰めれば程度問題である。耐え難いと思うこともできるし、大したことないと考えることもできる。もしもアイデンティティで苦しんでいるなら、今すぐ連絡をくれ。私の話を聞いてくれ。私は断言する。あなたは大丈夫だと。

 断言すること。このことの意味と大切さは、のちほど「良心=全的に知ること」を紹介するときに説明したい。