※以下は、私が2020/2/28に書いた文章である。書いたけど、誰も相手にしないと思って放置していたものだ。

 

 デビルマンは永井豪原作の漫画である。昭和40年代に少年誌に連載され、テレビアニメにもなった。主人公の高校生が、デビルマンに変身して怪物(デーモン)と戦う。一見ごく普通の勧善懲悪のヒーロー物である。

 

 孔子によれば、

 四十にして惑わず

 五十にして天命を知る

である。

 

 だが五十を過ぎても、このデビルマンを上回る作品に私は出会っていない。そんな気がする。小説、映画、テレビドラマ、歌など、素晴らしいものがたくさんこの世にある。だが、どれもデビルマンの持つ射程、スケールには敵わない。

 なぜ私が、これほどデビルマンを評価するのか?それはこの作品が、人間の恐怖、弱さ、醜さ、利己主義、残忍さを表現しているからだ。そしてさらに、重要なこと。普通の人が簡単に悪魔になることを、この作品は見事に描いている。

 デビルマンのあらすじを簡単に紹介しよう。高校生の不動明は、牧村さんという一家に居候する高校生だ。牧村家の娘、美樹さんと明は惹かれ合っている。

 そこへ親友の飛鳥了が、地球がデーモンなる悪魔に襲われる話をする。デーモンに対抗するため、明は了の勧めで自分の身体にデーモンを憑依させる。これがデビルマンの誕生だ。

 しばらくデーモンが次々と、不動明に刺客を送ってくる。明はデビルマンに変身して、連戦連勝。これだけなら、この漫画が人々の記憶に残ることはなかった。実際テレビアニメ版は、普通のヒーローものと変わらない。だが、漫画版は違う。

 デーモンがついに、全世界同時に総攻撃をかけてくる。面白いのは、デーモンが人に感染して乗っ取ることだ。乗っ取られた人はデーモンになる。乗っ取りに耐えられなかった人は死ぬ。世界中で、莫大な死者が出る。不動明はデビルマンになって、デーモンと戦う。でも、多勢に無勢。殺される寸前までいくが、なぜかとどめは刺されない。

 親友の飛鳥了は、デーモンの総攻撃を予言していた。それが現実になって、逆に彼はパニックになる。「なぜ俺の言う通りになるんだ?」実は本物の飛鳥了は死んでいて、自分は堕天使ルシファー(サタン)であることを思い出す。

 一方、デーモンを研究・調査していた科学者(有識者)たちが、重大な結論を出す。それは、「デーモンの正体は、人間だ」だった。この結論が、とても重要。なぜなら、今隣にいる人間も信用できなくなるからだ。

 たたみかけるように飛鳥了が、不動明とデーモンが合体してデビルマンになる映像をテレビで公開する。牧村家のみんなに自分がデビルマンだと知られて、不動明は家を出ていく。

 だが、世間は許してくれなかった。まず牧村家の両親が逮捕され、昔の宗教裁判のように凄惨な拷問をうける。二人は耐えきれず命を落とす。牧村家にも、近所の人々が武器を取って襲いかかる。明が派遣したデビルマンの仲間が応戦するが、暴力が暴力を呼び美樹もその弟も殺害される。

 切り落とされた美樹の首が、長い棒に刺されて掲げられる。漫画では、美樹の首が1ページ全体に描かれる。死んだ美樹の顔は、まだ泣きじゃくっている。だがその首を掲げる人々は、悪魔退治ができたと喜びの絶頂にある。興奮のあまり、歓声を上げて踊っている。

 永井豪は、デビルマンのストーリーを全然計画していなかったそうだ。締め切りに追われて、翌週の連載をひたすら描いて積み上げたらこうなったらしい。事実はそうなのだろう。だが私たちが認めるべきは、永井豪の博識とそれを咀嚼できる実力だ。並の人ならば、断首された美樹を1ページ全体に描けない。彼だから、「ここが一番強調すべきだ」と決断できた。なぜ私はこんな話をするのか?私は、コロナウィルスの話をしているからだ。今隣にいる人間も、信用できない事態の話をしているのだ。

 人類は、デビルマンに描かれた悲劇的間違いを何度も犯している。それを少し紹介する。1975年、マルクス主義を唱えるポルポト派がカンボジアを軍事制圧した。ポルポト派は祖国をマルクス主義国家にするにあたり、特殊な政策を取った。それは、大人を迫害することだった。

 資本主義下でエリート層だった人(資本家、富裕層、役人、教師など)は、もう救えないので処分された。その一方、子供たちはこれからマルクス主義を学べば正しい道を進めるとされた。その結果、15歳前後の少年少女が刑務官に抜擢された。子供たちは、なんとエリート層だった大人たちの拷問に加担した。

 同様の事態は、キリスト教の異端弾圧や魔女狩り、ナチスのユダヤ虐殺、社会主義国の反対派弾圧などにも見られる。

共通しているのは、隣近所の人々が長年の知り合いを弾圧していることだ。ずっと前から仲良くしてきたのに、人は時として悪魔に変われるということだ。

 なぜ普通の人が悪魔になれるのか?この理由は、 ニーチェが簡潔に表現している。「あの猛禽は悪い。ゆえに羊である私は良い」

 この理屈を、これまで挙げた事例に適用しよう。

・資本主義に染まったエリートは悪い。ゆえに無垢な子供はよい。

・キリスト教を信仰しない異教徒、異端、魔女は悪い。ゆえに熱心な信者はよい。

・成功したユダヤ人は悪い。ゆえに勤勉なドイツ人はよい。

さらに、

・デーモンに変身した人間は悪い。ゆえに普通の私たちはよい。

さらにさらに、

・コロナウイルスに感染した人は悪い。ゆえに、彼らを迫害する私たちは良い。

 

 上記の理屈を、人は簡単に納得し受け入れる。だから「よい」側が「悪い」側に、何をしてもよいと考える。歴史が示す通り、相手を殺すことも躊躇しない。こうして美樹は殺され、首を切断されて棒で高く掲げられた。「よい」殺人者たちは、かけらも後悔しない。自分たちは正しいからだ。永井豪は、こんな人間の正体を理解していた。だからデビルマンを描けたと思う。

 美樹の死後、不動明は人が変わる。他のデビルマンを率い、堕天使ルシファー(飛鳥了)とデーモンに戦いを挑む。そして最終戦争(アルマゲドン)の後、明は下半身を失う。そんな明に天使の姿をした飛鳥が話しかける。

「私は昔、神々が醜いデーモンを滅ぼそうとしたので反逆した(堕天使ルシファー)。その戦争に勝利し、私とデーモンは長い眠りについた。その間に人類が世界を支配し、資源を乱獲し環境を汚染していた。私は人類を許せず、絶滅させることにした。だがそれは、神々がデーモンを滅ぼそうとしたのと同じだった。私が間違っていた」

 堕天使ルシファー(飛鳥了)が明をデビルマンにしたのは、彼に生き残って欲しかったからだった。実は飛鳥了は、人間である不動明を愛していた。だから勇者アモンを犠牲にしてまで、明をデビルマンにしたのである。注目すべきは、昭和40年代の少年漫画で、堂々と男性同性愛が描かれていることだ(※ルシファーは、両性具有とされてはいるが)。

 しかし、全て失敗してしまった。下半身を失った明は、了の話を聴きながら息を引き取る。明が死んだことに気づいた了は、眠ったんだねとだけ言う。完璧なストーリーだと思う。

 

 さて、今の世界で、デビルマンと同様の事態が起こっていないだろうか?

・コロナウィルスに感染した人は悪い。ゆえに感染していない人は良い。

→ 死ぬのは怖い。だから感染した悪人に、感染していない善人は何をしてもよい。

 多くの人は、こう考えている。感染を防ぐため、感染者の人権を奪って構わないと考えている。あるいは、感染していないのに、中国人だから、韓国人だから、日本人だから差別を受ける。

 私は思う。牧村家を襲う人が現れないことを。また、コロナ(デーモン)に乗っ取られたと言って、自暴自棄になる人が現れないことを。