1988年の夏、小鴨さん(仮名)という19才の少女が、自宅で手首を切った。もちろん自殺だった。幸い、すぐに家族が気づいて、彼女は一命をとりとめた。小鴨さんと私は、高三のクラスメイトだった。とくに親しくはなかった。

 今日のように暑い日、浪人生だった私は予備校に出かけた。お昼に、予備校の広い自習室に入った。知り合いは、境(仮名)しかいなかった。私は彼が、あまり好きではなかった。でも、その境と目があった。私は仕方なく、彼の隣に座った。

「小鴨なんだけどさ」と彼は、とっておきのスクープを話すように言った。「自殺しようとしたんだって」

 身近な人間の死の話に、私は衝撃を受けた。身体がぐわんぐわんと、一人で揺れていた。

「・・・どうして?」と、私は尋ねた。

「知らねえよ」と、境はぶっきらぼうに言った。「家で手首切って、家族が見つけて助かったってよ。今は、精神科に入院してるって」

「どうして、そんなことになったんだ?」

「だから、知らねえって言ってんだろ!」と堺は少し怒鳴った。「あいつさ、イカれちゃったんだよ。きっと」

 堺はそう言って、頭に指をさした。そして、くるくると三回指を回した。彼は、笑っていた。自殺未遂をした小鴨さんを、笑っていた。

 私はそのとき、この男を本気で殴ろうかと悩んだ。真剣に悩んだ。なんとかその誘惑を断ち切ると、堺に病院の名をたずねた。

「〇〇だって」

 私は、来たばかりの予備校を後にした。急いで地元に帰るつもりだった。すぐに帰り、小鴨さんがいる病院に行くつもりだった。

 その日の午後、私は薔薇の花束を抱えて〇〇市内の病院をうろついた。小鴨さんは、見つからなかった。他の病院にも、問い合わせた。でも、小鴨さんという人は入院していなかった。実は彼女は、ある大学内の病院にいた。市内の病院では、なかったのだ。私は収穫なく、家路に着いた。まさに肩を落として。

 家に帰ると、私は手紙を書いた。小鴨さんの自宅に送れば、家族が彼女に手渡すはずだ。私はかなり、長い手紙を書いた。しかしどんなことを書いたか、全然記憶が残っていない。私は相当、熱くなっていたらしい。

 なぜ私は、小鴨さんをそんなに心配したのだろう?私たちは高三のクラスメイトだったが、まったく親しくなかったのだから。もちろん、心当たりはある。それは、死だ。死の可能性に、19才だった私は敏感に反応した。それは見過ごせない可能性だった。誰かが、何か手を打たなくてはならなかった。

 手紙は、翌朝に投函した。次の日から私は、この話をみんなにして歩いた。何か情報を得たかった。みんなのアドバイスも得たかった。だが、収穫はゼロだった。熱くなっている私を、みんなはどこか醒めた目で見た。それに誰も、入院後の小鴨さんのことは知らなかった。

 夏が終わる頃には、私は降参ムードになった。小鴨さんの自宅に電話して、根掘り葉掘り聞く。そんなデリカシーのないことはしなかった。さらに、手紙に対する返事は一切なかった。小鴨さんはもちろん、家族からもなかった。私の手には、もうカードが残っていなかった。

 高三のクラスメイトに、田崎(仮名)という男がいた。中肉中背で背も高くはなかったが、抜群に頭が良かった。高校の教師も、口では彼に勝てなかった。その上田崎は、とても懐が広かった。人の器の大きさを感じた。だから、クラスの女の子は、みんな彼が好きだった。

 田崎には、高二の頃から可愛い彼女がいた。彼と彼女はよく、放課後を学校そばの喫茶店で過ごした。田崎は制服のまま、たばこを吸うという大胆なことをしていたらしい。いい意味で、彼はワルの要素も備えていた。

 小鴨さんのことを、田崎なら救える気がした。実は境も、女の子に人気があった。卒業してすぐ、別のかわいいクラスメイトと付き合っていた。境でも、小鴨さんを救える気がした。彼らが私のように手紙を書いたら、小鴨さんは勇気付けられるのではないか?少なくとも、彼らに返事をするのではないか?

 つまり私は、自分が醜男だから返事をもらえないのだと考えた。そう考えれば、すべてが説明がついた。私は無価値な男なのだ。私は、田崎でも境でもないのだ。

 毎晩23時になると、私はサントリーの安いウィスキーで水割りを作って飲んだ。そのころ、ビル・エバンスの「Bマイナー・ワルツ」という曲が大好きだった。その曲が入っているアルバムを、私は繰り返し聴いた。そして美味しくもない水割りを、何杯も飲んだ。

「Bマイナー・ワルツ」は、とても悲しい雰囲気を持つ曲だ。美しいけれど、胸が苦しくなる。当時私は、無力感でいっぱいだった。私は、田崎でも境でもない。いや、壁の花だ。いや、ドライフラワーだ。いやいや、壁に張り付いている、微生物だ。私の価値は、その程度だ。

 11月のことだったと思う。朝10時に、小鴨さんから電話がかかってきた。私は予備校をサボって家にいたので、電話に出ることができた。

「先生にはね、XXくん(私のこと)にもっと早く電話しろって言われてたの」と、言い訳するように小鴨さんは言った。

「そうだったんだ」

「そうなの。今ね、病院の公衆電話からかけてるの」(1988年のことである)

「今は、どんな感じ?」

「うん。私ね、電話魔なの。毎日、みんなに電話かけまくってるの」

 そう言って、小鴨さんは笑った。とても、機嫌が良さそうだった。

 私と小鴨さんは、こうして親しげに話した。初めてのことだった。何しろ彼女と、まともに話したことがなかったから。私たちは、親しい友人のふりをした。けれど意外にも、自然に話ができた。

 それから、私も小鴨さんも注意深く話した。決して、自殺やそれを匂わせる会話は避けた。学校の話題も避けた。何かプレッシャーがかかること、責任や、約束や、大人になること、そういった話題は徹底的に避けた。

「私ね。田崎が好きだったの」

「そうだったんだ」私は平静を装った。でも電話口で、頭を抱えた。

「でも、彼女がいるからね・・・。私は、可能性ゼロだね・・・」

「そう、だね」

「でもね。私、好きな人ができたの!」

「へえっ!誰?」

「今の先生。私を、治療してくれてる人。もう、すっごく、優しいの!」

「それは、よかったね」

「でもさ。子供の私なんか、相手にしてくれないよね・・・」

「そんなこと、ないんじゃない?」

「でも、先生、大人だから」

「大丈夫だよ。弱気になることないよ」私は根拠なく、人を励ます癖がある。

 小鴨さんとは、30分くらい話した。お別れの挨拶を交わして、電話を切った。彼女とは、一切約束をしなかった。フリーな立場を保って、私は思った。やはり、私は無価値だ。小鴨さんとは、もう関わらないことにしよう。そうすれば彼女は、私に電話をかける面倒が省ける。19才だった私は、本気でそう考えた。

 この出来事は、私にそれなりの影響を与えた。私はかなり、厭世的な人間になった。私は、夢を描かなくなった。社会で何者かになって、成功する。あるいは、女の子と永続的な関係を築く。具体的には、幸せな家庭を持ち子供を設ける。こういったことを、夢見なくなった。興味がなくなった。

 最近になって、「Bマイナー・ワルツ」の楽譜を見つけた。さっそく購入し、練習して楽しんでいる。やはり美しい曲だと思う。だがその美しさは、常に小鴨さんを含んでいる。私は彼女を忘れて、この曲を聴けないのだ。今日のように暑い日は、彼女を思い出してしまう。彼女が手首を切った、1988年の夏のことを。

 音楽の美は、作曲者の卓越さや演奏者の技術によるものだろう。だが私たちは、人間だ。毎日毎日、つらいことが次々に起こる。そのつらい記憶と、音楽が結びついてしまうことは多い。思い出のせいで、音楽はより美しくなる。たとえ思い出が、自分の無価値を証明しても。