最初に、マディソン郡の橋(映画 1995)の話をしたい。クリント・イーストウッドとメリル・ストリープによる、大ヒット作品である。これは、平凡な主婦と中年のカメラマンのたった4日間の恋の物語である。そして、「不倫」の話である(原作の小説も、ベストセラーになった)。

ラストの別れの場面で、ほぼ全ての女性は号泣するだろう。それは名優メリル・ストリープの、鬼気迫る演技のせいもある。けれど、深い感動の理由は単純である。それは、誰もが「クリント・イーストウッドとメリル・ストリープの4日間の恋」が、

・「本当の」恋であること。

・一生に一度あるかないか、の恋であること。

を『直観』するからだ。

だから、

① この恋を成就する→家族・社会を捨て、「本当の」恋愛をする。

② この恋を諦める→家族・社会を選択し、偽りの人生を生きる。

メリル・ストリープは、この二択を迫られる。そして、彼女は②を選ぶ。そして死ぬまで、クリント・イーストウッドを思い続ける。いなくなった人は、ずっと美しいからだ。

では、① この恋を成就する を選択した場合は?まず社会から、様々なバッシングを受けるだろう。でもそれは、実は大した話ではない。本当に傷つくのは、自分の子供である。

 

  Nirvana のボーカル/ギターのカート・コバーンは、小さいときに両親が離婚したそうだ。最初は父親と暮らし、すぐに母親と暮らした。彼は生涯、「父親に捨てられた」と考えたそうだ。そのせいか、異常なほど内向的な性格になり、その情熱がロックに注がれた。Nirvana として成功したあと、彼はインタビューでこう語っている。

「自分は、親の愛情を受けられなかった。だから、娘にはできるだけのことをしたい」

そう語った彼は、のちにショットガンで頭を撃ち抜いて死んだ。まだ、27歳だった。

父親と母親の不仲(離婚)により、子供が傷つく例はいくらでもある。では、不倫はダメなのか?話は、そう単純でもない。なぜなら、それは「本当の」恋愛であることが多いからだ。マディソン郡の橋のように。実はコレ、実話だそうである。あなたは、家族・社会を選択し偽りの人生を生きられるだろうか?

 

 以下は、ベッキーさんと川谷絵音さんについて私が書いた文章の一部である(公開済み)。この文章の中に、ドイツの哲学者ヘーゲルが出てくる。それはこの文が、彼の主著「精神現象学」の全編解説を行なっているからだ。これは個人的に、是非とも挑戦したいことだった。

 小説自体は、女装趣味の男性のために、主人公がハッテン場サウナにいる彼女(彼)の恋人(男)に会いに行くという話だ。そのストーリーと、「精神現象学」を連結した。私は、こういう物語を考えるのが好きなのである。

「・・・大ヒット映画、タイタニックの話をしよう。この映画は1997年に公開され、当時史上最高の売上を記録した。この作品により、レオナルド・ディカプリオは世界最高峰に立つ俳優の一人となった。

 だがこの映画は、不倫である。ケイト・ウィンスレットは上流階級の娘で、大金持ちの青年と婚約していた。貧しい青年のレオナルド・ディカプリオは、美しいケイト・ウィンスレットを一目見て恋に落ちる。だが身分も違うし、婚約もしている女性。可能性ゼロの恋だった。

 ゲスの極み乙女。の、川谷絵音さんとベッキーさんの不倫話は有名である。川谷さんが既婚者でありながらベッキーさんと付き合った。離婚してすぐに、再婚を計画していたらしい。少なくとも週刊文春の記事と、その後のニュースはそう報じた。

 二人に対する、凄まじいバッシングが起こった。あんまりにも大騒ぎするので、普段は全くニュースを見ない私にまで話が聞こえてきた。当時私は、「二人は浮気したんだな」程度にしか考えず、興味もないのでそれ以上は聞かなかった。

 日奈子ちゃんの影響で、最近からゲスの極み乙女。を聴くようになった。私は彼らが、すぐ大好きになってしまった。彼らの作る音楽が、私のストライクゾーンど真ん中だったからだ。

 この騒動で、彼らのことが嫌いになった人へ。ちょっと待ってほしい。あなたは何のために怒っているのだろう?誰のために怒っているのだろう?

 思い入れや偏見、臆見を捨てて、冷静に事実を観る。これは、人生のあらゆる場面において大切なことである。さて、川谷さんとベッキーさんの騒ぎについて、第一に指摘したいことがある。それは私たちが、川谷さんとベッキーさんの間に起こったことを何も知らないということだ。

 週刊文春の、記事がある。それに続いて、ワイドショーなどでさらにいろんな情報が報道されただろう。しかし、それは事実だろうか?私は、そう思わない。

 まず、週刊文春の記事について。彼らもバカじゃないから、念入りに取材する。一つの事実について、複数のソースから情報を集める。つまり、裏を取る。そして、まず間違いないと確証を得る。用意周到な彼らは、発表前に弁護士にも相談しておくそうだ。名誉毀損などで訴訟になった場合の対応策や、勝算も敗訴の費用も確認しておく。ニュース・バリューとリスク(訴訟含む)を天秤にかけて、「儲かる(勝てる)」と判断した記事だけ発表する。

 森鴎外が、面白いことを言っている。彼は歴史小説の作家だが、その事前準備の困難をこう嘆いている。

「資料を集めれば集めるほど、事実が変わっていってしまう。だからもう、集めるのをやめた」

 彼は、何を言っているのか?描きたいと思った、昔の人物について資料を集める。編纂された複数の歴史書や記録、本人や同時代の人の日記、手紙など。だがそれを読み込めば読み込むほど、描きたい人物がわからなくなってくる。その人は、善人だったのか、悪人だったのか?社交的だったのか、孤立主義だったのか?強い意志の持ち主だったのか?煩悩に負けてしまう人だったのか?これは、答えが出ないのだ。なぜか?事実とは、断片的だからだ。わかりやすいストーリーには、なっていないからだ。

 私たちは、タイタニックを名画だと評価する。史上最高の売上を記録して、しばらくギネス・ブックに載っていたほどに。でも、ちょっと待ってくれ。レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットは、浮気をしてるんだよ。婚約者は、同じ船に乗ってるんだよ。軽率な二人を、「けしからん」とバッシングしろよ!。何で、二人を許すの?川谷さんとベッキーさんは、許せないんでしょ?おかしくないか?

 その理由は、こうである。私たちが、事実を全て知っているからだ。レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットは、お互い本気になるつもりはなかったこと。でもどうしようもなく、惹かれあってしまったこと。悪いことだと思ったし、諦めよう、別れようと努力したけど、愛情がそれを上回ってしまったこと。

 映画はその過程を、リアルに描いている。私たちは、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットのことを、二人の間に起こった全ての事実を知っている。だから私たちは、二人を「赦し」ているのだ。私たちは、人を赦せる存在なのである。

「赦し」は、相手の中に見えた「悪」の要素が、自分の中にもあると認めることだ。それを深く理解し、「自分の非」を認めたとき、自分の絶対的正当性を投げ捨て相手を「善」と認めることができる。

「良心−全的に知ること」の部分で、ヘーゲルがこう主張していたことを思い出そう。

 さて森鴎外は、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの間に起こったことを知ることはできない。私たちだってできない。誰も川谷さんとベッキーさんと、川谷さんの元奥様とバンドメンバー、さらに二人の友人たちの間で起こったことを知らない。どれも、知りようがない。

 週刊文春は、たくさん資料を集めた。それを事実と判断し、記事にした。それが彼らの仕事である。だが彼らには、森鴎外のような謙虚さがない。調べれば調べるほど、答え(=事実、記事の内容)は変わってしまうからだ。

 また、こんな言い方もできる。私は、文章を書く人間だ。週刊文春が集めた資料を貰えば、すぐに4、5ページの記事を書ける。簡単である。ここで、はっきり断っておこう。私は記事の中で、川谷さんとベッキーさんを『人の道を踏み外した極悪人』にも、『許されぬ悲恋の、美しき犠牲者たち』にも描ける。ちょいちょいっと事実を脚色して、結論を真逆にできる。本当である。週刊文春もワイドショーは、たまたま川谷さんとベッキーさんを悪人に描いた。ただ、それだけだ。

 ワイドショーを含めマスコミは、視聴者、読者を見ている。もし仮に川谷さんとベッキーさんを叩いて、クレームが殺到したとしよう。彼らは自説をさっと引っ込める。一晩で引っ込める。なぜなら、明日の視聴率が落ちるからだ。次号の売上が落ちるからだ。彼らに、自分(の心、職業倫理)はない。でも視聴者(読者)は、マスコミは真実を報道していると考えるのだ。

 マスコミ(週刊文春、ワイドショー、ニュース番組、新聞、・・・)は、視聴者、読者と共犯関係にある。リベラルなマスコミは、リベラルな記事(ニュース)を報道して、リベラルな視聴者、読者の支持を得る。それで金が稼げる。保守的なマスコミは、保守的な記事(ニュース)を報道して、保守的な視聴者、読者の支持を得る。それで飯を食う。この簡単な理屈を、理解している人は少ない。

 第二に、生きる上で最も重要で、何より確実で、何より大切なことを話そう。それは、恋愛である。

 プラトンは、「パイドロス」の中でこう語っている。われわれに起こる善きものの中でも最も偉大なものは、聖なる狂気を通じて生じる。

① 予言術

② 信託を行う巫女たちの神がかり

③ 詩作の狂気

④ 恋の狂気

 プラトンによれば、この四つが偉大な狂気である。そのうち恋の狂気とは、やみくもな欲望に分別を忘れた魂の激動ではなく、実は「神々から与えられた善き狂気」である。

 このプラトン説について、三点断っておきたい。

A .この主張が、当時高名であったリュシアスの「自分を恋している者より、むしろ恋していない者に身を任せるべきである」、という説への反論であること。こんなわけわかんない、ひねくれた主張をするやつはどの時代にもいるのだ。

B .プラトンが、「聖なる狂気」とか「神々から与えられた」と宗教チックな言い回しを使うのは意図的である。

 デカルトが、「我思う、ゆえに我あり」を思考のスタート地点にしたのは、対キリスト教会対策だった。それと同じように、プラトンも当時のギリシャ人にも伝わるよう、「神々」を土台にして自分の哲学を語っている。

 それが理解できないと、プラトンは大昔の冴えない哲学者に見える。逆に彼のテクニカルな言い回しが理解できると、俄然プラトンは史上最高の知恵者に見えてくる。

C .「善きもの」「善き狂気」と、「善き」ばかり、プラトンはこだわる。この「善き」こととは何か?これがプラトンの、有名なイデア説である。

 プラトンは、真、善、美(=エロス、恋愛)と、この世にはたくさんの善きことがあると言う。善きことはそれぞれイデア(概念=本質)があり、それはあの世に実体がある。真実のイデア、美のイデア、三角形のイデアなどなど。

 人は輪廻転生するので、あの世にいたときにこの「たくさんのイデアの実体」を見ている。再びこの世に生を受けると、人はあの世のことを忘れるものだ。だがイデアの実体は覚えているので、人は誰もが真、善、美を共通して持っているし、理解し合うことができるのだ。さらに真善美などのイデア全てを統合するのが、「善のイデア」である。

 この言い方も、「あの世」をダシに使ったトリッキーな説明である。まともに読むと、いまさら天国だの輪廻転生だの、とてもついていけない。だがそんな言葉遣いのメイク落としをすると、私たちはプラトンのレベルの高さにびっくりすることになる。彼の主張は、ヘーゲルとよく似ているのだ。

「行動する良心」も「批評する良心」も、相手の中に自分と同じ「正しいこと」の確信があると認めること。これがヘーゲルの「良心−全的に知ること」へ向かう、大切なステップだった。

 この『相手の中に、自分と同じ「正しいこと」の確信がある』という理解は、『あの世に「善のイデア」があるから、誰にでも「正しいこと」の確信がある』と言っていることはほぼ同じである。ヘーゲルもプラトンも、辿った道は違うが同じ場所に到着したのだ。

 聖なる狂気の一つとして、プラトンは「恋の狂気」を神々から与えられた「善き狂気」だと言う。

 恋愛を讃えることは、古代の神話、詩から始まり、現代のあらゆるエンターテイメントに至るまで、誰もが行っている。だがプラトンほど鮮やかに、生々しく、人間の本性を噛み砕き、愚かさや醜さも取り込んで、かつ完璧に語れる人はなかなかいない。その上プラトンの説明は、とてもわかりやすい。

 恋は狂気である。私たちは誰も、自分自身の恋愛体験からそれを理解する。私たちはみんな、本気で恋をしたことがある。まさに私たちは、そのとき狂ったのだ。自分を見失い、相手に突進し、相手にも周りにも迷惑をかけ、天にも昇る喜びを感じたと思ったら、次の瞬間に怒り狂い、さらに次の瞬間にはオイオイと泣いていた。恥ずかしくて穴に入りたいくらい、私たちは取り乱したのだ。

 その恋は、実っただろうか?破れただろうか?どっちでも、いいんだよ。そうプラトンは言う。あなたの恋は、神々から与えられた善き狂気だ。素晴らしいことなんだ、善きことなんだ。私は全面的に、プラトンの意見に賛同する。

 ゲスの極み乙女。の曲を聴いていると、どうしてもあの騒動を連想してしまう。川谷絵音さんは、自身の体験から詩のインスピレーションを得るタイプかもしれない。『イメージセンリャク』で、「幸せにはできなかったし、さよならすら言えなかった」と、川谷さんは歌う。そこに日常を脱した狂気があると、私たちは知る。

 いやいや、文芸評論家の小林秀雄は「評論とは、他人の作品を使って自分の夢を語ることだ」と言っている。アーティストとは結局、自分自身を晒け出しているだけかもしれない。自分の作品を、生き方を、「事そのもの(=社会)」に提示して試しているだけなのだ。

 提示された、川谷さんとベッキーさんが見た夢。それは、叶わなかった。だが私は、あえて言いたい。その想いは、『善きこと』であった。善きことであったと、私たちの誰もが理解できる可能性がある。それは当時、二人をバッシングした人々も含めてだ。

 なぜなら人々は、「赦し」合うことができるからだ。『「赦し」は、相手の中に見えた「悪」の要素が、自分の中にもあると認めることだ。』からだ。確かに、浮気は他の誰かを悲しませる。浮気を、「悪」と呼んでもよい。

 けれど、相手を狂うほど好きになることと、現実に他の誰かを犠牲にすることは別問題だ。好きになることは、自分ではどうしようもない 。否定できない。でもその好きという夢を叶えるのは、「事そのもの(=社会)」の中で調整するべきことだ。やるしかない。夢を叶えたいならば。

 だが繰り返すと、夢見ることと、現実問題を解決することは、まったく違うことである。夢見ることは善きことである。夢を叶えることは、良心をかけて努力することである。正解はない。

 夢とは叶わなければ 偽りなのか?

 あるいは もっと悪いものなのか?

 再び、The River である。夢に敗れたとき、人は「夢なんか見なきゃよかった、夢見たこと自体が悪かった」と考える。それはある種の、自己防衛的発想とも言える。

 でもその夢に、「善きこと」が含まれているならば「悪いもの」ではない。自分でそう思えなくとも、周囲の人が肯定してくれる。あなたが落ち込んでいても、あなたの大切な人があなたを励ましてくれる。あなたが知らない人も、あなたを影で応援してくれる。「事そのもの(=社会)」とは、そういう場所である。人は誰も大人になると、優しくなれる可能性を持つのだ。本当だよ!」