こんにちは

あみこ。です。




以前

日光東照宮近く

日光二荒山神社さんの分社



滝尾神社さんへ向かう途中に

とても気になった看板がありました






それを見た時



私は



「 ある姫君様の

忘れ去られた場所  」




そんな言葉が浮かんできました。






こちら

日光東照宮の裏
養源院跡看板です ↓↓
( ようげんいん )








ここにあった

養源院( ようげんいん )

建立されたのは




徳川家康さんのご側室 

英勝院さま

( えいしょういん )






そして、


養源院は



英勝院さまが

ご自身の部屋子から

家康さんのご側室となった 



於六の方様

( おろくのかた )



を弔う為に

建てられたそうです。





その養源院は

水戸藩が守り続けてきた、と

この日に知りました。





英勝院様は



家康さんのご側室だった頃は

お梶の方と呼ばれていて

( おかじのかた )







江戸城を築いた

太田道灌の子孫 太田氏

( おおたどうかん )



遠山氏の血を引いた方だったようです







関東を治めていた

北条氏を降伏させた



豊臣秀吉さんが



家康さんに

関東を与えることで



元々の馴染んだ土地から

新しい知らない土地へ

領地を変えてしまいました。




家康さんは

関東に入国してから



関東の名族の子孫を

江戸に集めたそうです。




その中に 

太田氏も入っていて




英勝院様 


( 当時は お八さま 

後に お梶の方様 )も召し出され



後に 側室として

お仕えするようになったようです。







徳川幕府には、



御三家という

( ごさんけ )



将軍家に次ぐ

家格を持ち 特別な待遇を受けた

3つの分家がありました。






(  徳川将軍家に


跡取りの男子が産まれなかったり

跡取りの男子が亡くなってしまって



将軍を継ぐ

男子がいなくなった場合



御三家の中から

将軍を出すことができる )





徳川家康さんの

晩年に産まれた3人の息子さん達が

御三家の初代なりました。




9男

🔹尾張徳川家      徳川義直

 おわりとくがわ   (とくがわよしなお )


10男

🔹紀州徳川家           徳川頼宣

 きしゅうとくがわ  (とくがわよりのぶ  )


11男

🔹水戸徳川家           徳川頼房 

    みととくがわ           (とくがわよりふさ )






英勝院さまは、



家康さんの最後の子ども

市姫さまを

お産みになりましたが



4歳の時に

亡くなってしまい




哀れに思った家康さんは 

英勝院さまを




水戸藩初代となった

家康さんの11男・徳川 頼房さんの

                            (よりふさ )

養母とされました。






( 同時に


▫️家康さんの息子 

結城秀康さんの次男 虎松さま

後の 松平忠昌さん




▫️家康さんの娘 

督姫さまの娘 振姫さま


の養母となられた )







水戸藩は

水戸黄門様で有名ですが




後に黄門様と呼ばれる

    

徳川 光圀さんは

   ( みつくに )



頼房さんの次男( 三男 )として

お産まれになりました。





実は

彼が産まれる前に

彼の実のお兄さんが産まれています。




お名前は

 

徳川 頼重さん です。

   ( よりしげ )





順番から言えば


このお兄さんが

跡取りとなる筈ですが






父親である頼房さんが

 



まだ お兄さんに

お世継ぎが産まれてない事を

気にされて

堕ろすように言われたそうです。





それで、



英勝院さまや

ご家臣によって

密かに母子は匿われて



ご家臣のお屋敷で

頼重さんは産まれました。



その後

京都の公家のお家で養育されました。






後に、


同じお母さんから

弟の光圀さんが産まれて



光圀さんが

水戸藩の跡取りとして

育てられました





英勝院さまは



京都のお寺に入って

出家する事になっていた

頼重さんを



江戸の

水戸藩のお屋敷に

戻してもらえるように



その時の将軍

秀忠さんにお願いしたそうです。

( ひでただ )




そして



秀忠さんの

息子の家光さんに将軍が代わり

         ( いえみつ )



英勝院様は

頼重さんを家光さんに拝謁させます。

  



その時に



頼重さんは

常陸国・下館 五万石藩主に

取り立てられて



その後

讃岐・高松十二万石の藩主となりました。






そして 英勝院様は



水戸藩の跡継ぎと決まった

幼い光圀さんの事も


家光さんに

拝謁させています。







自分の育てた

頼房さんと

その息子さん達



そして


水戸藩を支えて

見守り続けた



英勝院さまのお姿が

見えるような気がしました。







光圀さんは 


本来なら




実の兄で

長男として先に産まれた

頼重さんが



水戸藩を継ぐはずだった、と

考えて




自分の息子さんを

お兄さんの元へ養子に出されました



そして、



お兄さんの息子さんを

水戸藩の跡取りとして

養子に迎えました。






(  光圀さんも


お父様と同じように



身篭られた女性に

堕ろすよういわれたそうで




その時に

母子を救ったのは




むかし、

光圀さんのお母さんが

兄の頼重さんを身籠った時に

匿って



自分のお屋敷で

頼重さんを産ませた



水戸藩のご家臣の

娘さんご夫婦だったそうです。





産まれた光圀さんの息子さんは



兄の頼重さんの元へと送られ

そこで 育てられて




光圀さんの息子さんが、

後に 高松藩主となりました。 )








英勝院様の部屋子だった

於六の方様は

( おろくのかた )




家康さんの最後の側室となり

ご寵愛を受けたそうです。








家康さんが亡くなった後



現在の

横浜市栄区のお寺で

尼となって過ごされていました。




その後

将軍の秀忠さん(家康さん息子)の

ご命令により



還俗して 



喜連川家に

嫁がれました。







そして、


日光東照宮参拝をされた時に




(  落雷によって 、や


お焼香の香炉が割れて

それが額に当たった、等 



様々な説が

云われていますが



亡くなった理由は

はっきり分からないようです )






急に 

亡くなっなってしまいました。





29歳という若さでした。







於六の方様が

亡くなった理由は

定かではありませんが






英勝院様が


東照宮の直ぐ裏に

養源院を建てて



この地で亡くなった

於六の方様を

お弔いした想いが



分かるような

伝わってくるような気がしました。





英勝院様ご自身は、



鎌倉にあった


遠い

ご先祖様に当たる



太田道灌のお屋敷跡地に

( おおたどうかん )



英勝寺を建てられて




徳川頼房さんの娘

小良姫様を

初代住職とされたそうです。




(  その後 

英勝寺は 代々 

水戸家の姫がご住職となった  )




そして


お亡くなりになった後

英勝寺の裏山に埋葬されて



徳川光圀さんによって

お墓が建てられているそうです。





🔹英勝寺は

鎌倉唯一の尼寺さん








女の人たちは結界という言葉を

たまに感じていました。







お話しが

とても

逸れてしまいますが、、




以前

富士山の麓にある

あるお寺さんに案内して頂いた時に








偶然、



徳川のお世継ぎを産んだ

あるご側室が

お父君の為に建てたお墓に会いました。





彼女のお父さんは

禁を犯して

処刑されたのだそうです






江戸から遠く離れた

この土地で



誰にも知られないよう

そっと

弔いをされていたのかな…










権力の近くで

生きていた女性達は




自分の命を使い

自分自身を遣い




見える部分で

ご自分の役割を果たされると共に





彼女達の

存在そのものが




見えない部分で

ご実家や嫁ぎ先のお家を守るお力や




産まれた土地や

ご自身が関わる土地や人を



お守りするお力を

持っていたんじゃないのか

なんて想像していました。





(  結界としても

存在しているような  )







祈りで守る



見えない

女性達の果たされた役割






知恵を使ったり


心を使ったり




現実に

争いを産まない為に

手を尽くして




頼んだり

お願いしたり




残された命を守って





失われた命に

祈りを捧げて




恨みや悲しみが

消えるように祈りを捧げる






見えなくても

大切に扱わなければいけないものが

あるような気がします






ひとつ ひとつの出来事を知ることや




そこであった

事実や真実に近いものを知ること、





そこに関わった方達の想いを

何となく感じて知ること






( 頑張ったとか

しんどかったとか

辛かったとか



こんな事したんだ、とか

こんな事があったんだ、とか




大変だったとか





とても嬉しかったとか

幸せ感じたとか

感謝を感じているとか



自分の気持ちを

分かって貰えたり

知って貰えた




それだけでも



私は気持ちが済んで

あーー もう いい。と 




何だかスッキリします。



モヤモヤした気持ちを

終わらせる事が出来たりします )





そうやって




確かに 存在していた

ひとりひとりの命と人生に




ただ 手を合わせて

弔い 讃えて 鎮魂の想いを捧げたら





ひとつ ひとつ、



そこに 残るものを

終わらせていける気がして




新しい世界を

迎える為にも



それは必要な儀式のように

感じました。







魂を弔う場所では

穏やかで優しい気持ちになります




手を合わせて

私が癒して貰っているみたいです。






日光という土地は


とても気持ちの良い場所です





養源院跡は

そっと存在していて



静かな空気がしていました。








長くなった文章を


ここまで

読んで頂いて


ありがとうございました。