大須の神楽部 | 雄勝法印神楽師のブログ

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 雄勝町に伝承される雄勝法印神楽は、現在は一つの団体となったが、その前段として雄勝、大浜、大須地区の神楽団体を二次団体として雄勝法印神楽保存会を形成していた時代があった。
 これは、雄勝=金剛院、大浜=市明院、大須=大性院と羽黒派の修験院が3つあり、明治期以降にこの3つの修験院がそれぞれの地区で神職となり全く同じ神楽の伝承活動を行ったことによるものである。
 18世紀頃、羽黒派修験で行われていた法印神楽は、エリア毎に10カ院程度がそれぞれグループを形成して神楽を奉納していたようであり、雄勝町の3カ院は桃生十法印のグループに所属して、その十法印が集まって神楽を奉納していた。
 法印神楽は、修験者により舞い伝えられてきた神楽であることから、明治初年の神仏分離や後の修験道廃止令の影響を強く受け、数年ほど神楽が舞われることはなかったようであるが、修験から神職になった神主に引き継がれ、明治10年代には宮城県内神職取締所が試験ののち神社附属神楽の神楽師として認可し神職が行う村社の神楽として継承され、大正初年には神職から氏子の有志にも伝えられた。
 明治中期から後半になると、桃生十法印の繋がりから、志津川の戸倉波伝谷、北上町、河北町の神職との繋がりが緊密になっていったようである。
 特に雄勝町大須地区では大正年間に戸倉の旧宝道院、旧宝覚院の両斎藤家の神職と、以降2代に渡り大性院が廃絶した後も大須地区との関係を構築していたと古老は語っており、地域の信頼も厚かった。
 大須地区においても大正年間に氏子に神楽が伝えられ、当初は面などの神楽道具も個々の神楽師の所有であったが、斎藤宮司らが所有していた面と恐らくは同氏が斡旋したと思われる後藤作の神楽面10枚口(10面セット)が大須神楽部発足と同時期に納められているようである。

 

 

 

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