若い頃は年長者の発するオーラに怯ていた。長年の経験によると思われるその思慮深い言動にいつもひれ伏さなければならないと思っていた。少なくともこれまで生き抜いてきたことに敬意を示して、何かしらの恩恵に預かりたいと思うのと、威厳のある態度に敬意を感じていた。そこには老害とは違う何かしらの哲学が存在していて、それ以外は受け入れられないであろうと思わせるオーラがあった。

実際に自分が年を取ったらそんなに大したものではなくて、それまで誠実に生きてきたルーティンとかだとか、大切にしてきたものだとか、そういう物がにじみ出てくるのであると分かる。ただただそれを畏れていた若い頃の自分が馬鹿馬鹿しくなる。若い頃の自分は何の威厳も哲学も経験もルーティンも無いことにとても恥を感じていた。でも普通に息を吸って、心臓を動かして、足を前に出して、生きてきただけで、それらを身にまとうことができたような気がする。何かとてもだいそれたことをしなければ、それらは手に入る筈はないと思い込んでいた。でも、自分の善とすることを行い続けてきたら、自然とそういう物は手に入った気がする。私の畏れは一体何だったのだろうか。ビビリか。そういう場面で無邪気に振る舞えなかった自分をいつも恥じていた。何かを失い続けていると感じていた。自分に価値を見いだせなくて、失い続けていた。今やっとその戸口に立って外へ歩き出せそうな気がする。