昔、竹中直人が怒りながら笑う人、という芸をやっていて、面白かったが、私にとっては怒りも笑いもセットである。感情であって、怒りとともに笑いもあり、悲しみがあって嬉しさもある。悲しんでいてもふとしたことで笑いがあったり、怒り狂った後に嬉しさを見つけたりする。私にとってはセットで、いつもひとつの感情の後にもうひとつの感情が表れるまで、待っている。

最近の私は怒ることばかりがあって、少々食傷気味だ。今回は怒りしか湧いてこない。怒りが湧いてくるとその理由を必死に探す。その怒りを論理的に説明するために文章に起こす。強烈な印象の文章ができあがる。それを人に読んでもらう。刺激の強いその文章で、相手が食傷気味になる。自分も相手も気分が悪くなる。

思えば私は怒りの連続であった。自分では変えることができない状況にいて、ひとりで対応しなければならず、いつも怒っていた。いつもキツい状況にあって、生き抜いてこられたのは、怒りがあって、それを克服しようという思いがあったからだ。怒れる何かが私をここまで生かしてくれたのだ。私は普段何もない時には、とても穏やかで静かである。でも怒りを感じたら、止めることができない。頭の中に警報の笛の音が響き渡る。実際に頭に血が上って顔に熱を持つ。

ここまでくると、病的な何かか、酷い孤独の中で過ごしている人なのか、と自分を見間違えてしまう。自分のプライベートのストレスを怒りにぶつけているのかと思う。それはそれで、これはこれ、と分けられればいいけれど、頭の中が熱を持ってもうどうすることもできない。そこまで怒ることがあるのか、と思い直して考え直そうとしても、やはり結論は同じだ。私にはどうしても受け入れ難いことがあるのだ。ここまでくると、他の感情が湧いてこない。湧いてくれば、気持ちも楽になるが、楽にはならない。それほどの怒りなのだ。

母がいつも人の立ち居振る舞いや言動や物事の道理について怒りを表す人だった。彼女の中に答えがあってそれ以外だと文句を言う。文句を言われるとその場は気まずくなる。気まずくなっても、彼女は言い続けた。物事が良い方に向かうように。教育的配慮なのだ。私にもそれができるかどうかは分からない。誰かに潰されるかもしれない。でも怒りは止まらない。それはあってはならないことなのだ。怒りを表さないで、その物事が普通に通り抜けられることが駄目なのだ。あってはならないことが普通に通り抜けられてしまっては、社会が崩壊する。社会と言ってもそんなに大きなコミュニティでなくとも、周りの人が苦労をする、苦痛を伴う、そんなことをやり続けるやり方は間違っている。私は怒り続けるのだ。