昨日は自分がどれだけ我慢をしてきたか、考えていた。生まれた家庭環境でも我慢をしたし、結婚して持った家庭でも我慢をした。もうそれは自分に備え付けてある部品みたいに、当然のことのように我慢をした。毎日をやり切るために我慢をしたし、子どもたちのために我慢をしたし、夫のために我慢をした。何だったんだ?これまでの私の人生は。

そんなことを考えながら、昨日も趣味の日とした。お花を習いに行ったし、出かける時間を間違えて、一時間早く出かけてしまい、ファミレスで朝食を食べた。何でこんなに道が混んでいるのだろう?とよくよく考えてみたら、到着時間を間違えて設定していたことに気がついた。どうしよう。慌てて朝食も食べずに出てきたし、洗濯物も子どもたちに任せてしまった。ファミレスで朝食を食べながら時間を潰そう。道すがらファミレスに入ってモーニングを注文した。温かいパンとスクランブルエッグ。とても嬉しかった。ひとり時間と誰かが用意してくれた朝食ほど嬉しくて美味しいものはない。私はつくづくひとりが好きなのだ。家庭にいるといろいろな声に耳を傾けなければならず、私には負担なのだ。勝手に家庭を作っておいて言える台詞ではないが、本当のことだから仕方ない。今気がついたのだから、仕方がない。

ファミレスに入った時には男性がポツポツしかいなかったが、そのうちに女性客が入ってきた。私の斜め前には私と同じくらいの歳の人が座って、モーニングを注文していた。しばらく経って、幼稚園入園前くらいの女の子が外から女性の座っているところの窓ガラスを叩いて合図をした。理解するのに時間がかかったが、女の子は孫なのだろう。綺麗にバッチリメイクをした若いお母さんが女の子と一緒に現れた。話し口調を聞いていると、女性が実の母親であろうと思った。いくら気の知れた仲でも義母と朝からフルメイクをしてファミレスでモーニングは無い気がした。まぁ義母かもしれないが。それだけ打ち解けられたらいいだろうな、という思いと、朝からフルメイクさせられる状況になったら若いお母さんは怒り狂うかな?と思ったり、推測が揺らいた。どちらにしても、行儀よくドリンクバーからドリンクを選び、大人しく座って大人しく話をしていた。女の子も困るような言動はなく、母たちの会話に耳を傾けていた。私にはそういう経験がなかったので羨ましく感じた。長男が女の子の歳の時は、母はもう倒れていて、そういうことが叶わなかった。普通でいても、母と私の間には、緊張の糸がピンと張られていて、打ち解けるとか、気の知れるとか、そういう砕けた関係性は築けなかった。母は母、私は従えるもの、という関係性が成り立っていた。私には母の領域に足を踏み入れることはできなかった。そんなことを考えていたら、悲しくなってきてしまった。今朝は運転中も母のことを思い出してしまい、悲しくなって悲壮な顔で運転してしまったし、ファミレスでも、他の親子を見て、私と母の関係性を思って悲しくなってしまった。今日は母の日だ。テーマは母。そういうことにして抗ったりもがくのはやめようと思った。あんな風に打ち解けて話したかった。もっと優しくしてもらいたかった、とか思うと悲しい気持ちになる。全然傷が癒えてないな、大丈夫か、私、と思った。私自身も無いものを見ている気がした。蟻地獄だ。

お花のレッスンの会場に着く前にも、悲しみが胸をよぎってしまい、レッスンを受けられるか?と思ってしまった。でもどうにか切り替えて会場に入る。会場に入れば、また違う思考になれる。今日の花材の話やアレンジの作り方を聞いて、イメージ膨らませた。でもなかなか具体的には出てこないから、手を動かしながら、考えることにした。私は花材をよく見て、その花材の可愛いところを見つける。花の咲き具合や、蕾の形や、葉の向きなど、見るべきものはたくさんある。手を動かしていると、少しずつ花だけに集中できる。途中先生が注意点ややり方を教えてくれる。自分のイメージしたものと出来ていくものは違ってもがく。でもそれでもいいのだ。出来たものを愛おしく思う。

レッスンが終わって、他の生徒さんと雑談があり、会場を後にした。これからどこに行こう。最後の梅を見に行こうと公園へ車を走らせた。夫と出かけると、というか、夫の運転する車に乗ると、目的地から自宅へ直行なので面白味がない。無駄なことはしたくないのだ。無駄な時間、無駄な駐車料金。私は無駄をしていきたい方なので、相容れない。仕方ない。今まで我慢してきたことを今は実現するのだ。お昼の日差しが車内を暖めてきた。曇り空から太陽が覗くようになった。公園でどれくらい過ごそうか。お腹が空いているけど、何を食べようか、などと考えながらタラタラと運転していた。そういう余分な時間というのも贅沢なのだ。その間は何も考えなくて済む。

公園に着いて梅の植えてあるエリアに行くと、だいぶ梅の花がほころんでいた。ほころんでいたけれど、綺麗なところを見つけて、写真を撮った。梅の花と雲と青空と。気持ちが晴れやかになった。公園には犬の散歩をするために訪れる人がチラホラいた。私も犬を飼っていればな、こんな暖かい日に散歩したらどれだけ楽しいことだろう。子どもたちが遠足に来ていて、一斉に走り出す姿や、小さな子どもがお母さんとヨチヨチ歩いているところを見て、ほっこりとした。お腹が空いて、売店に立ち寄ったが、お腹にたまるものは売ってなくて、諦めた。今から家に帰って何か食べることは嫌になっていた。外食続きだけど、回転寿司屋に行くことにした。実際は店舗の前でなかなかに逡巡した。でも入店した。カウンター席で一席空けて両隣とも女性客だった。皆各々好きなものを注文している。私もそうしようと思った。好きなものを好きなタイミングで注文する。贅沢だ。本当は二男の誕生日に回転寿司屋に行く予定だが、それとは違ってひとりというのはまたいい。我慢をしないで注文できることはとてもいい。いつもは我慢しているのだ。それを確認する。

帰り道にいつもの道を通っていたら、いつもいつも気になってはいたが入れない、陶器雑貨のお店の前で信号待ちをすることになった。今日は我慢を開放する日だ、と思って初めて入店した。入ってすぐから最後まで、魅惑的なお皿に魅了されてしまい、目がハートになっていた。店員さんとの会話も楽しく思える。このお皿今月末に500円高くなるんですよ、なんて言われた日には、また今月中に来なければならないと思う。私の好きな北欧食器も数多く置いてあった。WEDGWOODのお皿。WEDGWOODは母に77歳の記念にマグカップをプレゼントしたが、施設で洗っている時に割ってしまった。その思いがあって、とても残念に感じていた。それでもピンク色の大きなお皿が可愛くて、購入を決定した。昨日は母のことばかりが思い出されて、悲しくなってばかりだったから、これは気持ちの絆創膏だ、と思うことにした。お皿の縁に綺麗なレリーフが施されている大きなお皿。店員さんは、家族分何枚かで購入することを勧めていたが、我が家では洗い物係が長男で、長男は割とお皿を割るので躊躇した。1枚しかないと思えば割らないであろう、が私の望みだが、割ってしまう時には割ってしまう。今まで何度もそういうことがあった。仕方がないのだ。他にも魅力的なお皿がたくさんあって、目移りした。でもピンク色の大皿だけを購入してホクホクしながら帰路に就いた。娘が卵がないと言っていたから、卵を買いに薬局に寄ったが、普段食べる麺類の補充の買い物もした。ヨーグルトも買った。結局たくさんの荷物を持って退店する。主婦って結局こうなるよね、と思いながら車へ運ぶ。

朝出かけてから帰るまで、今までどれくらい我慢したのだろう?と考えながら過ごしたが、やっぱり我慢をしすぎたのだ、という結論に至った。そういう環境にいたし、反発する性質でもなかった。仕方がない。それをいいことにして、嵩を増してのしかかってきたのが夫である。今考えれば、その時には気づかなかった。洗脳に近いものがあったのだろう。好きになった人だから、働きに行ってくれているから、私は家事育児はそれほど苦にならなかったから、と自分に言い訳をしていたが、それがそもそもセルフネグレクトだ。働きに行かず、家の中で子どもたちに文句ばかり言う人になってしまって、やっと気がついた。好きの気持ちも薄くなっていった。家族を持つものとして、まるで関係を持とうとしないということは、人間として何かが欠落している。全てを自分のやりたいことを邪魔するものとして捉える。それは本当にありえない。自分の好きなことだけして、過ごしたいのなら、ひとりでいればいいのだ。自分の思考を押し付けるだけの存在なら、あなたには家族はいらないんじゃないの?と強く思った。