字が読めて、字が書けて、話すことが出来て、計算が出来て、そこから発展して難しい問題が解けて、いろいろなことを暗記して、、、とそのようなことが出来るのが知能と言われているけど、そしてそれが出来ないと知的障がいと言われるけど、果たしてそれだけが人の能力をはかる物差しなのだろうかと思うことがある。障がいというのは、その人にあるのではなくて、周りの社会が作り上げているのではないかと思うことがある。周りの社会が、文字を使い、言葉を使い、計算をするのが便利だから、そのようにしているだけであり、それが出来ないからと言って、人に障がいがあるとラベルを貼り、区別をしている。障がいがある子どもたちと一緒にいると、その瞳の中に、その立ち居振る舞いに、知性を感じることがある。それは、その子のこだわりの行動や、私たちが理解出来ない発語によって、見逃しがちになってしまうが、知性はあって、それがきちんと彼らの中で働いているのが分かる。きっと彼らの行動や発語を私たちが理解出来れば、わかり合える事があるはずである。分かっていないのは、私たちの方である、ということだ。私たちが勝手な尺度で子どもたちをはかり、勝手に障がいと名付けているのだ。社会が子どもたちを障がいと名付けた時から、彼らへの差別と、彼らの二次障がいは始まっているのだ。きっと、彼らが活躍できる場所は用意されていて、その活躍出来る時を待っているのだ。そういう事が信じられるくらいに、子どもたちを見ていると、感じる可能性がある。可能性の芽を摘んではいけないと思う。それは通常発達と言われる子どもたちに対してもそうで、子どもの可能性を摘んではいけないと思う。