帰宅してつけたテレビで、昔の紅白歌合戦が放送されていた。
1968年あたりもので、それはまさに私にとって紅白黄金期。
アイドルが登場する前の、歌い手というプロが、その心技をいかんなく発揮していた頃。
そして、その力量に見合った素晴らしい作品たちが次々に生まれた頃。
まさに、めくるめくといった歌たち、そして歌い手たち。
その歌い手はみんな若く、20代の人たちばかりで、そんなに若いのに何でこんなに歌がうまいのだと、ただ感心感動する。
驚いたのが、発声の仕方で、口の開け方が美しく無理がない。
いったい、あの時代、どんなふうに訓練されたのだろう。
舞台には2本のマイクが置かれ、そこへ行って歌うのが基本。
時々、ちょこっとお笑いが入り、それも程よい時間で、さっと歌に戻る。
過剰な演出もない。
歌が歌として、きちんと真ん中にある。
半世紀経っても、古くならない、それどころか、また新たな感動を運んでくれる。
これが歌なのだ。
歌の力って、こういうことなのだ。
良い歌は時代を超えていく。
その時代、そして後の時代と、それぞれに生きる人へ、それぞれの感動を運んでくれる。
メロディも歌詞もわかりません、とその昔、淡谷のり子さんが評した言葉を、時々思い出すが、私など、今の歌の半分はその通りにわからない。
メロディも歌詞もわからない。
この歌たちが、半世紀の後、どうなるのだろうと余計なことを考える。
翻って、なんて素敵な時代に育ったのだろうと嬉しくなる。
あの歌もこの歌も、何て素敵なんだろうと思う。
アナタがハナタに聞こえた弘田三枝子さんの「人形の家」や、人生初めてのカラオケで歌った黛ジュンさんの「天使の誘惑」や、友人とハモりながら帰った、ザ•ピーナッツの「恋のフーガ」や、もうキリがないほどの珠玉の歌たち。
良い時代に生まれ育ったことに、感謝。
いやいや、歌い手としては、歌い継ぐこと、歌い継げる歌を歌うことを、大切にしなきゃいかんなあ、とつくづく思うのだ。
1968年あたりもので、それはまさに私にとって紅白黄金期。
アイドルが登場する前の、歌い手というプロが、その心技をいかんなく発揮していた頃。
そして、その力量に見合った素晴らしい作品たちが次々に生まれた頃。
まさに、めくるめくといった歌たち、そして歌い手たち。
その歌い手はみんな若く、20代の人たちばかりで、そんなに若いのに何でこんなに歌がうまいのだと、ただ感心感動する。
驚いたのが、発声の仕方で、口の開け方が美しく無理がない。
いったい、あの時代、どんなふうに訓練されたのだろう。
舞台には2本のマイクが置かれ、そこへ行って歌うのが基本。
時々、ちょこっとお笑いが入り、それも程よい時間で、さっと歌に戻る。
過剰な演出もない。
歌が歌として、きちんと真ん中にある。
半世紀経っても、古くならない、それどころか、また新たな感動を運んでくれる。
これが歌なのだ。
歌の力って、こういうことなのだ。
良い歌は時代を超えていく。
その時代、そして後の時代と、それぞれに生きる人へ、それぞれの感動を運んでくれる。
メロディも歌詞もわかりません、とその昔、淡谷のり子さんが評した言葉を、時々思い出すが、私など、今の歌の半分はその通りにわからない。
メロディも歌詞もわからない。
この歌たちが、半世紀の後、どうなるのだろうと余計なことを考える。
翻って、なんて素敵な時代に育ったのだろうと嬉しくなる。
あの歌もこの歌も、何て素敵なんだろうと思う。
アナタがハナタに聞こえた弘田三枝子さんの「人形の家」や、人生初めてのカラオケで歌った黛ジュンさんの「天使の誘惑」や、友人とハモりながら帰った、ザ•ピーナッツの「恋のフーガ」や、もうキリがないほどの珠玉の歌たち。
良い時代に生まれ育ったことに、感謝。
いやいや、歌い手としては、歌い継ぐこと、歌い継げる歌を歌うことを、大切にしなきゃいかんなあ、とつくづく思うのだ。
