ホームに帰った父親は、車椅子でエレベーターから降りて来た。
付き添ってくれている介護士さんによると、ご飯の食べ方を忘れちゃったと言うらしく、介助をしているとのこと。
ほんとに忘れちゃったのかどうか、病院ではお粥と煮物を一人で食べていたじゃないか。
まあ、何でもありなんだろうなあと思うことにする。

しゃべることは、たいてい兄弟のことばかり。
兄弟というのは、人生の最後までこんなに思いを馳せてしまう存在なのか、これは父の場合だけなのか、一人っ子の私にはまったくわからない。

誰もこないというので、みんな死んじゃってるんだから来られないよというと、毎度のことながらひどく驚く。
次々に名前を挙げてくるので、次々にもういないよと返す。
みんなあっちへいっちゃったよ。
あっちってどこだ。
天国だよ。

天国は、もう父さんの家族でいっぱいだ。
戦前の水戸の家が、そのまま天国に移ったような。
そこには、ガタイのでかい男五人兄弟がいる。

そんな頃の思い出を、今の父がずっと持っていることに驚く。
それを大切に思っていることになお驚く。
そんなに仲良しだったの、強い絆だったの。
人の歴史は、当人にしかわからないものなのか。

父さんは、時々一番下の弟を私と間違う。
マサオと私を呼ぶ。
クミコだよと正すが、だんだんどうでも良くなっている。
マサオでもクミコでもどっちでもいい。

サビしいなあと父親はいうのだが、天国にいる人は玄関から入ってはこられない。
せめて、父のうたた寝にでも登場してくれればいいなあと思う。

あっちとこっちが、こうして少しずつ近くなっていく。
退院した父親の、退院手続きに行く。
これまで退院時に行けなかったことはなかったが、うまく時間の折り合いがつかずホームのかたに委ねた。
こういう時、施設のお世話になっていて本当に良かったと思う。

家にいる頃は、薬や衣類、そして移動手段など、ただでさえ混乱しやすいアタマは音をあげていた。
車椅子の扱いにも慣れていないナサケナサも、感じないで済む。
本当にありがたい。

肝心の精算は、おそらくこれくらいだろうと踏んでいた額とまったく違った。
あらかじめのお預け金のかなりの額が返ってきた。
驚いて、間違いじゃないですかと聞くと、同じ月に入院したので、こうなりますとの説明。

父の場合、前回の退院の一週間後での入院だったので、なるほどと納得。
(入院が1日だったこともラッキーなのかもしれない。これが前月の30日だったらどうなるのかなあ)

とにもかくにも、ちょっと得した気分で病院を後にする。
いやいや、父にしてみれば得もなにもないのだが。

これからどれだけの入院が待っているのか、皆目わからない。
こうして一回ごとに弱っていくのも、寿命なのだろう。

苦しみのないよう、と子は思うが、そう言う意味では苦しみを全部忘れさせてくれる認知症は、やっぱり神様のプレゼントに思える。

今日は戻ったホームに父を訪ねる。
昨日のような雷雨がないといいのだが。
まだ家庭にちゃぶ台がある頃。
帰宅するといわゆる丹前と呼ばれる和服に着替えた父親の、そのアグラのへこみに座った子供の私は、父親の晩酌を見ては、お酒ってそんなに美味しいものかと思った。
ねだると、おチョコにほんの少しお酒を入れ「困ったなあ、やっぱり血筋かなあ」と、嬉しそうに父が飲ませてくれた。いや、正確には舐めさせてくれた。

飲兵衛の娘は、長じてお酒の失敗は限りなく、それでも何とかケガもせず、誰かを傷つけることもなく生きてこられたのは、たまたまの運と、何より周りの人たちの温情だったろう。

オリンピックの選手と一緒にしては、あまりにそのかたに失礼とは思うものの、19歳の女性が飲酒をして、それが法律違反でオリンピックには行けないらしいと聞くと、妙に胸はザワザワする。

法律は人を守るためにある。
未成年の飲酒禁止は、成長を阻害するのを防ぐために作られた法律だろう。
とはいえ、ほとんどの人が内緒で、チョコっと一杯やってたなんてことは、よく聞く話で、そこへいくと、子供にちょこっと飲ませた私の父親など、もはや人非人のようでもある。

法律は人のために。
人の幸せのために、伸び縮みしたり解釈を柔軟にしたり。
大岡越前ばりに、うまい扱いがあってもいいのではないかと思う。

この若い娘さんが、今どれほど悔い苦しんでいるかを思うと、気の毒でならない。
たとえ、オリンピックに出場できたとしても、どれほどのバッシングの嵐が襲うのか、それを思っただけで苦しくなる。

法律とは何か、どう沿って生きていくか、この辺りは、今の朝ドラでも見ることができる。
もとは、やっぱり人の幸せのため、お互いに生きやすくするため法律は存在する、そういうものだろう。

罰するのは、罪であって人ではない。
それにこの娘さんは、もうじゅうぶんに、いや、じゅうぶんすぎるほどの「罰」を受けてしまっている。