ホテルで朝食を食べていた時、10時頃でしたか、上空を米軍機が飛んでいきました。
その轟音のすさまじいこと。
そして、米軍機は去らず、というか、複数機いたのでしょうか、あたりは30分以上もそのやかましい音に、話し声もかき消されました。
那覇では、オスプレイが飛んでいくところも見ました。
私たちは、日頃、地震や交通事故の心配をすることはあっても、戦争はどこか遠い思いでとらえています。
でも、ここ沖縄では、戦争は常に隣にあるのだと感じさせられます。
嘉手納(かでな)基地を見に行ってみました。といっても、そばの道の駅からですが。
軍用機が飛んでいました。
近くの住宅にはアメリカ人家族が住み、軍人の姿もみかけました。
こうしたことすべてが、沖縄の人たちにとっては不快なものなのでしょう。
かつて、太平洋戦争の末期、日本はついに、本土決戦、つまり、国内での戦闘を決意しますが、そのために、まずはアメリカ兵を沖縄で迎え撃つことにしま す。
本土を守るためのこの作戦は、「捨て石作戦」とも呼ばれ、多くの沖縄の人たちが犠牲になりました。
その数、20万人。沖縄の4人にひとりが亡くなったとも言われます。4人にひとりです!
戦争は本来、軍人と軍人が行うもの。
でも、沖縄では、10代前半の子供たちまでが戦争にかり出されたと言われています。
アメリカをして、「最も悲惨な、地獄のような戦場だった」と言わしめた戦争は、「沖縄戦争」と呼ばれます。
このときから、沖縄の人たちには、本土や日本政府に捨てられたという思いが消えません。
美しい海や自然は、この悲しい歴史を物語っているようでもあり、胸をしめつけます。
今は本土とは言わないけれど、他都道府県の人たちは、このことを忘れてはならないと思います。
でなければ、沖縄の人たちが、あれほどに基地問題に怒る気持ちを理解することはできません。
「今なお被害者である」という思いを。
沖縄の人は基地があるから豊かなのだろうというのも間違いで、ほとんどその恩恵を受けてはいません。
沖縄の道路を走ると、その古さに驚きます。お金がある県とは思えません。
堅い話になってしまいましたが、今日は、沖縄の暗部について書いてみました。