例によって本の断捨離をしています。

今回はこの本です。

加藤諦三/羽仁進ほか「青春と孤独 真実を求めて」(大和出版、1976.07)

だいぶ昔に購入した書籍です。
どこで、どういう風ないきさつで買ったかは失念しました。

第8刷の発行が1977.12 とカバーに印刷されていますので、昭和52年暮れ以降に買ったのは確かなようです。
おそらく創価学会学生部の活動についていけず、学会組織に疑問を持ったころ、孤独を感じて、書店で書名にひかれて買ったのではないかと思います。

今でも影響を受けている個所を中心にかいつまんで紹介します。

「青春と孤独 真実を求めて」 目次

■考える精神について  加藤諦三
 □空しさを救う哲学
 □何によって存在するのか__人間の行為
 ■“なすべきこと”の発掘
 □生命の歓喜について
 □若者をふるいたたせる使命

□“ひとりからの出発”  羽仁 進

□青春へのアドバイス 河盛好蔵・串田孫一・田中澄江

□若い人のための「幸福論」 アラン・小海永二訳

□青春の名言 寺山修司

 


考える精神について

 

加藤諦三

 

“なすべきこと”の発掘

自由の中で見い出す生き甲斐とは


自由とは環境である。
しかし人間は植物とちがって、自然的環境の他に社会的環境というのがある。そしてこの環境にがんじがらめにされているのだ。自由とは人間が何かをするための必要条件であって十分条件ではない。
自由のもとにおいてしか人間は自らを感じることができない。人間は自由のもとにおいて自らを知り、自らを表現しようとするのだ。かさねていうが、自由そのものは決して目的ではないのだ。
それを誤解するから次のようになる。
「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている」
自由とは手段であって、われわれは自由を得たと同時に「自己」をも獲得しなければならなかったのだ。自由を得たとは、のびのびと天真爛漫に生きる可能性を得たということで、天真爛漫な生命そのものを得たということではない。
近代においてたしかに自由を得た。しかし、ある意味では競争の自由は、競争しなければならない不自由となっている。
人間は自由のもとに成長する。しかし、逆に自由とは条件である以上、人間は自由のもとに頑廃することもある。
ある人にとって自由とは生き甲斐と自らの価値観を失うことの自由であった。だが、またある人にとっては真に生き甲斐を得ることのできる自由であった。自由とは人間の試煉の場である。自由のもとにさかえるか、滅びるか? それこそまさに俺達の勝手だ。自由とは、何を思ってもよい、何をいってもよい、何をやってもよい、ということだ。だが、しかしそれでは「つまらない」という若人もいるだろう。
平和と自由に退屈する若人もいるだろう。それが「自由とは何か死に似ている」という言葉なのだ。しかし、真の自由の意義は、単に何をやってもよいということではなく、やり甲斐のあることをやるということだ。
そして、自由とはもし、やり甲斐のあることが目の前にないなら、やり甲斐のあることを探し求める自由なのだ。自由を単にやり甲斐のあることをやる自由とだけしておくと、やり甲斐のあるものが与えられない時、それは「なんとなくつまらなくなる自由」になってしまう。
「探し求める自由」を忘れてはならない。
自由は、どの人を恋人にするかということである。どんなに恋の自由があっても素晴らしい人がいなければ、恋の自由はしょせん形式的なものになってしまう。しかし自由とは、理想の恋人を探し求めることの自由なのだ。
青年よ、何かを探し求めて歩いていけ!
理想の恋人を探しつづける自由であり、現実の恋人を理想につくりかえる自由なのだ。自由の名のもとに、われわれが忘れたのは「探し求める自由」と、「創造の自由」だ。そしてまた自由とは手段であり条件である以上、それはいかに放棄するかが大切なのである。
職業選択の自由をもっている時、いかにして職業をえらぶか、ということが大切なのだ。今までの人間はあるいは神によって、あるいは国家によって、ある程度ごまかしのできる生き方が与えられていた。
だが、自由の下においては、自らの全情熱をかけて、ごまかしのない人生を生きる以外に生きる方法はないのだ。

 


解説

自由は、どの人を恋人にするかということである。どんなに恋の自由があっても素晴らしい人がいなければ、恋の自由はしょせん形式的なものになってしまう。しかし自由とは、理想の恋人を探し求めることの自由なのだ。
青年よ、何かを探し求めて歩いていけ!
理想の恋人を探しつづける自由であり、現実の恋人を理想につくりかえる自由なのだ。

 

分かりやすいたとえですね。




獅子風蓮