例によって本の断捨離をしています。

今回はこの本です。

加藤諦三/羽仁進ほか「青春と孤独 真実を求めて」(大和出版、1976.07)



だいぶ昔に購入した書籍です。
どこで、どういう風ないきさつで買ったかは失念しました。

第8刷の発行が1977.12 とカバーに印刷されていますので、昭和52年暮れ以降に買ったのは確かなようです。
おそらく創価学会学生部の活動についていけず、学会組織に疑問を持ったころ、孤独を感じて、書店で書名にひかれて買ったのではないかと思います。

今でも影響を受けている個所を中心にかいつまんで紹介します。

「青春と孤独 真実を求めて」 目次

■考える精神について  加藤諦三
 □空しさを救う哲学
 ■何によって存在するのか__人間の行為
 □“なすべきこと”の発掘
 □生命の歓喜について
 □若者をふるいたたせる使命

□“ひとりからの出発”  羽仁 進

□青春へのアドバイス 河盛好蔵・串田孫一・田中澄江

□若い人のための「幸福論」 アラン・小海永二訳

□青春の名言 寺山修司
 


考える精神について

加藤諦三

 

何によって存在するのか__人間の行為

歪められた孤独感に気づこう


孤独という時、二つのことを分けて考えねばならない。
一つは存在的な意味における孤独だ。
つまり人間は一人で死んでいかなければならないという、よく聞く言葉によって表わされているものだ。
もう一つは皆が、はなやいで話している喫茶店に、友達のいない一人の人間が坐って感じる時の、心理的な意味における孤独だ。
人間の存在はたしかに孤独な存在だ。自分が木にぶつかって倒れて痛いのは自分だ。誰もこの痛さを引き受けることはできないし、腹がへれば、この自分が何かを食べる以外に方法はない。
よく冗談で「代りにトイレに行ってきてやろうか」という。これが冗談になるのは、それが絶対不可能だからだ。
そしてこの存在的な意味における孤独から、よくひねくれた思想家や文学者は、人間は孤独だという。それが精神的不健康な青年達にアピールする。あるいは健康な青年を毒していく。
人間が存在的な意味で孤独だということを知らされた青年は、時に無理して、孤独ぶることで自分が心理的に悲劇の英雄になり、あるいは哲学青年をよそおうことができる。
孤独はポーズであり、てらいでしかない。しかし、このてらいの孤独、孤独ぶることでなんと多くの輝かしい青春が失われることか。素直な気持でいたら、涙のでるような歓喜を、このてらいの孤独のために、人間は失ってしまう。
なかには、この存在的な意味での人間の孤独から、心理的な意味での孤独におちいる人もいるのかも知れない。しかし人間がいかに存在的な意味で孤独であっても、心理的に孤独になるのはおかしい。
人間というのは、太陽のまわりを地球がまわっていると知っても、なおかつ、太陽がまわっているように見えるのだ。人間が存在的な意味で孤独であると知って心理的に孤独になるのは、太陽が動いていないと知って、太陽が動いていないように見えるというのと同じだ。
人間はどんなに一人で死んでいかなければならなくても、決して孤独ではない。いや、存在的に見て、これほど孤独でありながら、人間がこれほどお互いに共感できるということに、人間の魂の崇高さを感じる方が素直な感じ方だ。それを存在的な意味での人間の孤独から、妙に人間の孤独を強調する、ひねくれた頭のよい人間がいすぎるのだ。
したがって僕は人間存在の孤独を、あまり問題にしないし、また問題にするなら、それ故に人間の尊さを問題にしたい。われわれが問題にしなければならないのは心理的な意味での孤独だ。一人になる、一人でいる、ということと孤独とはちがう。英語でも lonely と alone がある。

 


解説

孤独という時、二つのことを分けて考えねばならない。
一つは存在的な意味における孤独だ。
つまり人間は一人で死んでいかなければならないという、よく聞く言葉によって表わされているものだ。
もう一つは皆が、はなやいで話している喫茶店に、友達のいない一人の人間が坐って感じる時の、心理的な意味における孤独だ。

(中略)

なかには、この存在的な意味での人間の孤独から、心理的な意味での孤独におちいる人もいるのかも知れない。しかし人間がいかに存在的な意味で孤独であっても、心理的に孤独になるのはおかしい。
人間というのは、太陽のまわりを地球がまわっていると知っても、なおかつ、太陽がまわっているように見えるのだ。人間が存在的な意味で孤独であると知って心理的に孤独になるのは、太陽が動いていないと知って、太陽が動いていないように見えるというのと同じだ。

 

このたとえも秀逸ですね。

青年期に宗教書・哲学書を読むと、「人間は一人で死んでいかなければならない」という意味で人間は孤独だと感じ、それが昂じて心理的に孤独だと病んでしまうことがあるのです。

私は、確かに創価学会に疑問を持ち、そのことを理解の創価学会員に理解してもらえないという孤独を感じましたが、創価学会以外の友人にもめぐまれ、創価高校の同窓生も何人かは声をかけてくれたので、心理的に病むことはありませんでした。

    *   *   *

来年、高校を卒業して50年ということで、創価高校で集まりがあるそうです。

私のような「裏切り者」が出席していいものかどうか、悩みます。

私の話を聴いてくれる人が一人でもいるなら、顔を出そうかな……そんな気分です。


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獅子風蓮